聖 書:出エジプト記33:7~23

(7)モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。
(8)モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。
(9)モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。
(10)民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。
(11)人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。
(12)モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。
(13)それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
(14)主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。
(15)モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。
(16)わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。
(17)主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。
(18)モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。
(19)主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。
(20)また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。
(21)そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。
(22)わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。
(23)そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。

前回から礼拝をささげた礼拝者の姿を聖書から見ている。アブラハムのモリヤの山での礼拝を見た。今日は続いてモーセの礼拝を見ていく。

Ⅰ.平常を求める
教団創立の御言である出エジプト33:14を含む聖書箇所である。この時は、モーセがシナイ山で十戒を授かっている間に、民はアロンを中心に金の子牛を作り、踊り戯れていた。神様の怒りもモーセの怒りも激しかった。モーセは十戒の石の板を砕き、金の子牛をこなごなにし、なお剣で民を撃った。イスラエルの民は荒野の旅が始まってから、食物や水でつぶやき、不平を述べていた。さすがに今回のできごとは民も反省の様子が見える。モーセは会見の幕屋を作った。荒野での生活が今までは緊急であったが、定まったものになったと言える。モーセは会見の幕屋で神様に仕えた。神様が人に対して顔を合わせて友のように語られるという様子はモーセ以外にない。モーセほど神様に近かった人はいない。

Ⅱ.約束を求める
モーセは荒野の生活の中で秩序や形を求めたが、決して神様の約束を忘れたのではない。モーセは神様にカナンの地に向かう約束の成就を求めている。カナンの地に向かうにあたって、誰が自分たちと一緒に行ってくれるのか。カナンに向かう道を示し、神の民として恵みを与えてほしいと求めている。シナイ山のふもとで大きな罪を犯したばかりである。モーセには神様に近づく大胆さがあった。聖書人物には神様にすがりついて必死で祈る姿がある。引照:アブラハムのソドムへの祈り、パウロの同胞への祈り… 隣人へのとりなしの祈り、魂への重荷を持たせていただこう。モーセの祈りがあって「わたし自身が一緒に行くであろう。」との約束が引き出された。私たちの祈りは乏しく、信仰は薄いが、神様の愛、恵みは確かな真実である。祈りは全ての信仰者が参加し、果たすことのできる恵みの業である。

Ⅲ.栄光を求める
モーセの祈り求めは、神様の臨在と言うすばらしい約束を引き出したが、モーセはそれだけで満足しなかった。モーセは「栄光をわたしにお示しください。」(18節)と願った。モーセは神様が示してくださった幻を見た。神様が友のように親しく語られたモーセであっても直接に神様を見ることはできなかった。神様の栄光が通る時、モーセは岩の裂け目で神様の手によっておおわれた。神様の後ろ姿の栄光を見ることができた。私たちは神様の栄光からはほど遠いかも知れないが、鈍い私たちにも神様は栄光を見せようとされている。造られた被造物によって神様は栄光を表わされ、私たちの間を歩まれたイエス様を通して栄光を表わされ、私たちの中にも栄光を表わそうとされている。

モーセは神様に近く仕えた神の友であった。自分のためにではなく、自分の同胞のために神様の恵みを祈り、仕えた人であった。モーセの真剣なとりなしがあって、民は荒野の40年間も保たれ、カナンの地に入る恵みを得た。私たちの礼拝も自分が満たされることに留まらず、魂に重荷を持っていく力を持とう。