聖 書:創世記32:22~33:3

(22)彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。
(23)すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。
(24)ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。
(25)ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。
(26)その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。
(27)その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。
(28)その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
(29)ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。
(30)そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。
(31)こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。
(32)そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。

33章
(1)さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、
(2)つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、
(3)みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。

父の日の礼拝を迎えた。聖書で信仰の父はアブラハムである。今日は孫のヤコブを取り上げる。このヤコブがイスラエルと名付けられ、ユダヤ人はイスラエル民族を名乗り、現在の国名となった。ヤコブがイスラエルと名付けられたヤボクの渡しの箇所が開かれてきた。

Ⅰ.ヤコブの人間性
聖書は人の真実を包み隠さないで記す。多数の聖書人物の中でヤコブほど自我の強い人間は他にはない。押しのける者としての誕生、一杯の食物で兄エサウから長子の特権を奪い、父イサクをだまして祝福を受けた。兄エサウの憎しみを買い、叔父ラバンの所に逃げ出す。叔父ラバンとは20年間騙し合いのような関係であった。2人の妻、2人の側女と11人の子ども、多くの家畜は得たが巧妙というよりずる賢い。義父であるラバンの元から逃げ出すような別れ方となった。人の評価はどうあれ、神様はヤコブを愛し、ヤコブを選ばれ、導き続けられた。ヤコブは家族を持ち、財産を得、郷里に帰ろうとする。ヤコブが兄エサウを避け続けるならば、ヤコブの一生は逃避行であり、放浪者である。人生には逃げることのできない、対峙しなければならない重大な時がある。

Ⅱ.ヤコブの格闘
ヤコブは兄エサウを恐れていた。32章を最初から読んでいくとヤコブらしい策略が出てくる。人間的な計算、打算が強く感じられる。明日はエサウとの面会という夜、ヤコブは一族を先にヤボクの渡しを渡らせ、自分は残った。そこで有名な徹夜での組打ちの話が出てくる。この人は神様ご自身であったのか、不可思議な話である。沢村五郎師は「夜を徹しての祈りのすもうを取った」と記され、実際的にどうなのかということを越えて、祈りの戦いという霊的な解釈を取られている。ヤコブは徹夜でこの人に組み付いて一歩も譲らなかった。ヤコブの自我の頑なさであり、意思の強さでもある。相手の方が根負けし、もものつがいを外すという技を使った。ヤコブは痛手を受けても離さない。祝福を得ようとの強い願いがあった。神様の前に願い求める祈りの姿勢としては評価できる。

Ⅲ.ヤコブの変貌
ヤコブはこの人から祝福の約束としてイスラエルと名乗るように言われた。今回の祝福は今までのこの世の祝福とは違った。ヤコブはこれまで富や家族を得てきたが、ヤコブ自身は変わることはなかった。この夜もヤコブは川を渡らず一族の最後尾に残っていた。もしエサウが襲ってくるなら真っ先に逃げ出そうとしていた。組打ちの翌朝、ヤコブは先頭に立ち、身をかがめて迎えた。この変貌が一夜にしてなされたことは何と大きなことだろうか。ヤコブは頑固で御し難く、自己に凝り固まった人物であったが、打ち砕かれて変えられた。彼は足が不自由になったが、心の平安、魂の自由を得た。神様の御手にあって変えられない人はない。その人それぞれに、神様の時も、神様の取られる方法も一律ではない。

ヤコブが変えられるために、時間は長く、痛みも大きなものであった。それでも神様は待たれ、忍耐され、期待された。私たちも神様の忍耐の愛があったからこそ救われ、今も神様の愛の内に保たれている。信仰に雄々しく生きて行こう。