聖 書:ヘブル13:1~6
(1)兄弟愛を続けなさい。
(2)旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。
(3)獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。
(4)すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。
(5)金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
(6)だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。
最近、「エノクは300年神とともに歩み」(創世紀5:21-24)で、新しい挑戦を受けています。「臨在シリーズ」の中心聖句は「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」です。この場合の主語は「わたし=神」です。エノクの場合は「エノク」が主語です。つまり、「神はいつも私と一緒に居て下さいますが、果たして私は神と共に歩んでいるだろうか」という迫りを受けたのです。本日の聖言は主の臨在が私たちの日常生活の歩みにおいて具体化されることを勧めています。
Ⅰ.兄弟愛を続けなさい。
今年の教会標語は「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」(詩133:1)です。聖書は「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、」(ローマ12:10)、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至った」(Ⅰペテロ1:22)、「信仰に徳を、・・信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)と教えています。この「兄弟愛」は、「世界は一家、人類はみな兄弟」というような理想論ではなく、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ3:16)という明確な事実に基づいた教えです。この兄弟愛はキリスト者間だけではなく、「旅人をもてなしなさい。獄中にある人を思いやりなさい。苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい」と教えています。
Ⅱ.自分を愛する愛
聖書は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と教えています。「自分を愛する」という意味は、自己愛とは異なります。むしろ「自分を愛することができなくて、どうして他人を愛することができようか」という意味です。「愛する」と言う言葉を「大切にする、粗末に扱わない、物事を軽々しく考えない・・」等と考えますと分かり易くなります。現代は結婚そのものに対する考え方が多様化しています。夫婦関係の有り様や家族に対する考え方も一様ではありません。そうした中で聖書が「結婚を重んじなさい、寝床を汚してはならない。不品行なものや姦淫をする者をさばかれる」と戒めている意味を改めて深く考える必要があります。私たちは結婚だけでなく、この世におけるすべての営みは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)につながることによって真の意味を見出し、そうでないならば無意味なものになってしまうことを注視しなくてはなりません。
Ⅲ.金銭を愛することを避けなさい。
聖書は「金銭を愛することは、すべての悪の根である」(Ⅰテモテ6:10)と教えています。パウロは「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(ピリピ4:11)と述べています。この貪欲と満足とは、人を不幸にするか幸福にするかの岐路であります。〈金銭は救い以外は何でも買え、天国以外は何処へでも行ける〉ものです。この岐路を正しく選択することは容易なことではありません。ですから聖書は「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と、主の臨在をもって私たちを守り、導いて下さっているのです。私たちはこの主の臨在を軽んじることがないようにしなければなりません。
主は臨在をもっていつも共にいて下さり、内に居て下さいます。しかしあなたはいつも主と共に存在し、歩んでおられますか。「主はわたしの助け主である。わたしには恐れがない。人はわたしに何ができようか」。エノクのように神と共に歩ませて頂きましょう。