聖 書:申命記33:26~29
(26)「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、威光をもって空を通られる。
(27)とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、『滅ぼせ』と言われた。
(28)イスラエルは安らかに住み、ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
(29)イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、あなたの威光のつるぎ、あなたの敵はあなたにへつらい服し、あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。

今回のオリンピックに出場した日本選手の活躍は素晴らしいものです。インタビューに応じる選手の多くが、メダルが獲得できた理由として「家族の支え、人々の応援」をあげています。私たち人間は誰一人として人の支えなくして生きることはできません。孤独、孤立こそが生存を妨げる最大の強敵です。私たちキリスト者は人の支えもさることながら、天地万物を創造された神の強力な支えによって生かされている存在なのです。聖書は「とこしえにいます神はあなたのすみかである。下には永遠の腕がある」と教えています。

Ⅰ.大能の腕
何事においても支えるためには大きな力が必要です。祖父が孫を海水浴に連れて行って溺れている孫を助けようとして共に溺死したニュースには涙をそそります。私たちを支える永遠の腕について聖書は「あなたは大能の腕をもたれます。あなたの手は強く、あなたの右の手は高く、義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます」(詩89:13)、「見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。」(イザヤ40:10)と教えています。また聖書は「強い手と伸ばした腕とをもって、これを救い出された者に感謝せよ。」(詩136:12)とイスラエル民族に神の恵みを忘れないように勧めています。私たちも「大能の腕」によって救われたことを忘れてないようにしましょう。

Ⅱ.聖なる腕
聖書は「新しき歌を主にむかってうたえ。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。」(詩98:1)と教えています。私たちの神は「聖なる」お方であり、私たちを「聖なる腕」をもって潔めて下さるお方です。「くすしきみわざをなされた」とは、歴史的にはエジプトからの脱出やバビロン捕囚からの帰還が考えられます。私たちにとっては罪からの救いであり、汚れからの潔めであると言えます。聖書は私たちは「聖なる国民」(ペテロ2:9)であると教えています。聖なる腕によって聖なる民とされた者に最もふさわしい賛美は「新しい歌」、つまり「御霊に満たされて」(エペソ5:18)、主に向かって心から歌う賛美の歌なのです。

Ⅲ.抱く腕
オリンピック選手たちの鍛えられた肉体には力強さを感じます。神の腕は当然力強くありますが、その反面、母親が幼子を抱くような優しさがありあす。聖書は「あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった」(申命記1:31)と記しています。主イエスは「『だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された」(マルコ10:15,16)のです。主イエスは今日も私たち一人一人を幼子を抱くように抱いて下さっているのです。「イエスの御腕にに、その御腕に、静かに憩う、われはやすし」と日々賛美したいものですね。

25節後半に「あなたの力はあなたの年と共につづくであろう。」とあります。文語訳は「汝の能力は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん」です。「下には永遠の腕がある」。この腕の能力は、私たちの祈り求める信仰によって実体験することができるのです。