聖  書:イザヤ書46章1節~4節
46:1 ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。 あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。
46:2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず かえって、自分は捕われて行く。
46:3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、 胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
46:4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。 わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。

世界には多くの宗教が存在し、神仏の数も限りがありません。しかしつまるところ「人間が造った神と、人間を造った神」に要約することができます。本日のテキストは「人間に運ばれる神と、人間を運ばれる神」について記されています。

Ⅰ.人間に運ばれる神 (1~2)
古代中近東世界では、戦争はそれぞれの国の神々の戦いであると考えられ、戦争に負けると、敗戦国は偶像を担って逃げたのです。カルメル山上におけるエリヤとアハブの戦いはヤーウェ神とバアル神との戦いでもありました。「ベル」とはカナンのバアル神、「ネボ」はバビロンの偶像神を意味しています。これらの偶像神は「獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。・・・重荷となった者を救うことができず、かえって、自分は捕らわれて行く」という哀れな姿が記されています。わが国における夏祭りや秋祭りに担ぎ出される「御輿」の姿も同じようなものではないでしょうか。

Ⅱ.人間を運ばれる神の喚起 (3~4)
「偶像」は人間に運ばれる神、「創造主である神」は人間を運ばれる神です。ここに「わたし」という言葉が5回も記されています。この「わたし」とは創造主であり主権者である神に他なりません。この神が「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け」と呼びかけておられます。
わが国の宗教観には幾つかの特徴があります。一つはアミニズム(森羅万象に霊が宿る)の影響を受けています。二つは宗教心に富んでいます。何しろ八百万の神を信じているのです。三つは他宗教に対して寛容です。初詣や七五三などでは神道、盂蘭盆会や祖先崇拝などでは仏教、そしてクリスマスやクリスチャンスクールなどではキリスト教を選択しても決して不思議とは思わないのです。このような宗教観では「わたしとあなた」という人格的な強い絆は生まれてはこないのです。そうした中で、「わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け」と喚起しておられるのです。私達は謙虚になって神の言葉に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

Ⅲ.神に持ち運ばれる人間の恵みと祝福 (3~4)
多くの日本人は「あなたの宗教(信仰)は」と問われても返事ができません。つまり日本人は「宗教心」には富んでいますが「信仰心」には乏しいのです。「宗教心」とは、信じる対象よりも心に、「信仰心」とは、信じる心よりも対象に重点をおくのです。私たちの信仰の対象は「創造主である神であり、人となられたキリスト」です。ここに明快な「わたし、あなたがた」という人格的な関係が生まれてくるのです。改めて確認いたしましょう。私たちは「神に持ち運ばれる人間」です。持ち運ぶより、持ち運ばれるほうが楽ですね。〈あしあと〉と言う詩があります。
なぎさに私の足跡と主の足跡がありました。ところが人生の一番つらい時にその足跡は一つしかなかったのです。私は主に「なぜ、私が一番あなたを必要としてい た時に私を捨てられたのですか」と尋ねました。すると主は「あしあとが一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた。」と答えられました。
「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と約束して下さっています。私を持ち運んで下さる主を信頼し、信任し、信用し、そしてこの主を信じ仰ぎ見つつ、一日一日を歩ませて頂きましょう。