聖 書:ホセア書6章1~3節
6:1 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。
主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、
わたしたちを打たれたが、
また包んでくださるからだ。
6:2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、
三日目にわたしたちを立たせられる。
わたしたちはみ前で生きる。
6:3 わたしたちは主を知ろう、
せつに主を知ることを求めよう。
主はあしたの光のように必ず現れいで、
冬の雨のように、わたしたちに臨み、
春の雨のように地を潤される」。
先週から復活節を迎えた。聖書箇所は今年度、教会に与えられた旧約聖書からの聖句(ホセア6:1)である。ホセアは北王国イスラエルで主に仕えた。ホセアは1:1にあるようにヨアシの子ヤラベアムの時から神様の言葉を預かった。このヤラベアムは北王国の初代の王ではなく、第14代に当たる。宿敵シリヤ、アッシリヤは国力を弱め、南王国ユダにも勝った。領土は拡大、経済は発展したが、真の神様への信仰は薄れ、道徳も地に落ちた時代であった。
Ⅰ.イスラエルの背信
不信仰、背信の時代にホセアは神様に仕えた。預言者というと皆、神の人として崇められたのではない。エレミヤはエルサレムが陥落するという真実を語って泥の穴に投げ込まれた。イザヤはのこぎりで挽き殺されたという伝説がある(へブル11:37参照)。ホセアは神様の命によってゴメルを妻とした。ゴメルは不実、不貞であった。それはイスラエルが本来愛すべき神様を離れて偶像を慕ったという姿を引き写している。神様は背信のイスラエルを見捨てられず、立ち返ることを願い、招かれた(2章後半)。ホセアはその家庭生活を通してイスラエルと神様の関係を表した(3章)。ホセアも預言者でありながら悲しみや痛みを通されていった。神様はホセアの苦難の中に、この時代のイスラエルに仕えていくことの意味を教えられていった。ホセアは神様のイスラエルへの痛みと愛を実感していった。
Ⅱ.イスラエルの回復
6:1でホセアは主の元に帰れとイスラエルに呼びかけている。イスラエルは神様から離れ、迷い出ている。神様は「かき裂かれたが、またいやし」「打たれたが、また包んでくださる」とある。神様はかき裂く、打つという強硬手段でイスラエルの目を覚まそうとされた。神様は引き返させようとされる時にムチを振るわれる時がある。私たちに「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と言われるのだから、神様ご自身も神の民が痛む時に共に痛まれている。神様はただ懲らしめや暴力を振るう方ではなく、いやし、包むという回復を与えてくださる。神様の御手を恐れることはない。神様の御手に信頼し、委ねていくことができる。
Ⅲ.イスラエルへの約束
イスラエルへの呼びかけは「主を知ろう」(3節)である。主を知るとは単なる知識ではない。体験的に、身をもって知っていくことである。主の愛、慈しみ、回復、癒し…であるが、これは私たちの側からせつに求めよと言われる。私たちが神様に近づかなければ得られない。はばかることなく、大胆に主に近づこう(へブル4:14~16)。今、私たちには神様との間にイエス様が仲介者として立ってくださっている。主の恵みは、朝が来ると必ず日が昇るように、季節が巡るとイスラエルでは冬の雨(12~2月)、春の雨(3~4月)が降るように確かなものである。
私たちが罪を犯し続けるなら神様は時に強硬手段を取られる。その後には必ず癒しと回復がある。その体験は痛みを越え、主の愛の確かさの確認である。主はどんな時も愛をもって導かれている。この愛に生かされ続けていこう。