聖  書:テモテへの第二の手紙 第4章1~8節
4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

1.福音宣教の命令「御言を宣べ伝えなさい」(1-2)
「神のみまえで」「キリスト・イエスのみえまで」(1)とは、主の御前で自分自身の信仰と生活を吟味することです。「キリストの出現とその御国とを思い」(1)とは、信仰生活のゴールである再臨の主イエスにお会いすることを待ち望む信仰生活です。「良い忠実な僕よ、よくやった」(マタイ25:21)と主からの言葉をいただきたいものです。
「御言を宣べ伝えなさい」(2)とその主イエスからの厳粛な命令です。キリスト者は皆、主の十字架と復活の証人です。言葉と生活を通して、主を証する使命を託されています。わたしたちは聖書を神の生きた言葉として伝えられ、聞いて信じてきました(Ⅱテモテ1:5,3:15-17)。そして、「時が良くても悪くても」地道に伝道してきました。

2.福音からの逸脱の時代 「真理からは耳をそむけて」(3-4)
「悪くても」の一つとして、信仰の逸脱問題を取り上げています。「健全な教えに耐えられなくなり」「真理からは耳をそむけて」とは、聖書に啓示され、使徒たちが伝えた「福音」に固く立つことを、軽視し、他のものに目移りしてしまうことです。
「耳ざわりのよい話」「作り話」とは、この当時のグノーシス主義、ユダヤ律法主義などの異端のことでしょう。「宗教混合」(シンクレティズム)「多元主義」など時代に流行する思想を「福音」に混ぜて、人受けする話に変えて、「福音」から逸脱してしまいます。
主イエスは「毒麦のたとえ」で警告しています(マタイ13:24-30,36-42)。良い麦と毒麦が混在し共に成長します。福音が伝えられる時には、異端が発生し侵入することを警告しています。パウロも「異なるイエス」「違った霊」「違った福音」を警告しています(Ⅱコリント11:1-6)。「にせ使徒」「人をだます働き人」がいます。「キリストの使徒に変装」「サタンでさえ光の天使に偽装」します(Ⅱコリント11:13-14)。
本物と偽物は似ているので、騙されてしまいます。外側の看板だけでは、だまされてしまいます。信仰の内実は、主イエスとの生ける交わり、健全な聖霊理解と体験、キリスト教理の理解です。

3.福音宣教の使命の継承 「自分の努めを全うしなさい」(5-8) 
「しかし、あなたは…」「伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい」と、次の世代のテモテに福音宣教の使命を継承しています。わたしたちにとって「自分の努め」とは何でしょうか。
「わたしが世を去るべき時はきた」と、パウロは自分の殉教の時が近いことを知っていました。献身的な聖徒たちによって支えられた教会です。主の再臨に希望を持ち、終末時代の宣教の使命を全うしていきたいと願います。