聖 書:マタイ5:13~16

(13)あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
(14)あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
(15)また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
(16)そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

「山上の垂訓」は、マタイ5章1節「山に登り」~8章1節「山をお降りになる」までの112節にわたってイエスが語られた珠玉の教えを指しています。現在、ガリラヤ湖北西岸のカペナウムに「山上の垂訓教会」が建てられています。

Ⅰ あなたがたは、地の塩である。
塩には防腐剤、調味料、保存食、清めなどの効能があります。イエスは塩の効能を持った人物になることを教えたのでしょうか。聖書は大祭司アロンに対して「イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」(民数記18:19)。またダビデに対して「あなたがたはイスラエルの神、主が塩の契約をもってイスラエルの国をながくダビデとその子孫に賜わったことを知らないのか。」(歴代志下13:5)と記しています。聖書のメッセージは「神と人との契約」にあります。それは不変のものであって、たとえ人が契約を破ったとしても、神は永遠に契約を守られるお方です。「塩」はこのような神との「和睦、平和、親交、祝福、希望など」を象徴として使われているのです。「do」何をするか、ではなく、「be」何ものであるか、をイエスは私たちに求めておられるのです。

Ⅱ あなたがたは、世の光である。
イエスは「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)と言われました。「世」とは、私たちが生存している現世であり、神に敵対した世界を意味しています。聖書は「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:3)、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)と記しています。「光」は神の本質であり、イエスの本質もまた「光」なのです。
光であるイエスが「あなたがたは、世の光である」と言われる言葉は私たちにとって非常に重いものがあります。闇の放逐は光があってこそ実現するのです。パウロの改心は、「突然、天から光がさして、彼をめぐり照した」(使徒9:3)ことによって実現しました。これはキリスト教会にとっては、まさに神のみ業以外の何ものでもありませんでした。聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」(Ⅰコリント12:3)と記しています。初代教会は「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(使徒1:14)から始まりました。

「山の上にある町は隠れることができない」(14)は終末的な意味を持った言葉です。それはやがてキリストがシオンの山に再臨されることを意味しています。つまり主の再臨は避けることができない事実です。私たちに求められていることは、死に至るまで忠実に主に従って、地の塩であり、世の光であり続けることなのです。