聖 書:ヨハネ1:43~51

(43)その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。
(44)ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。
(45)このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。
(46)ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。
(47)イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。
(48)ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。
(49)ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。
(50)イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。
(51)また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。

バックストン師「赤山講話」の第3回である。今朝は、天が開かれるという主題で語る。天が開かれるという言葉はキリスト教独自のものと言えよう。天が開かれるとは、今朝示された内容を語っていこう。

Ⅰ.天が開かれる
聖書で第一に天は地に対する言葉であり、大空、宇宙という自然界を指す。天とはただ気象学、天文学の対象だけではない。「天、もろもろの天の天」(申命10:14)とあるように天空を超えた霊的、神的な意味合いを持つ。天に神様の御座(エレミヤ17:12)がある。召された者のために天国(ピリピ3:20)も存在する。神様は天にのみおられるということではない(列王上8:27)。神様はあまねく存在しておられる(偏在)。天が開かれるという神様の栄光の顕現は聖書には多く見られる。モーセの十戒授与、イザヤの見神、エゼキエルの異象、ステパノの殉教、ヨハネの黙示 … 短い記述だが、私は出エジプト24:10も思い起こす。
 
Ⅱ.ナタナエルに開かれる
ヨハネ1章後半はヨハネ福音書独自のイエス様が弟子たちを召された場面になる。43節からはナタナエルへの招きである。バックストン師はナタナエルについて4つの面から語る。①偽りがない(47節)。人間的な誠実さということもあろうが、神様の前に真実であるという姿勢を持っていた(詩篇32:1・2)。②いちじくの木の下にいる(48節)。ナタナエルが静まり祈っていた姿を示している。神様は静かな交わりを喜ばれ、語られる。③わたしは…見た(48節)。イエス様はナタナエルをすでに見られていた。冷たく厳しい視線ではなくありのままを見ようとされていた。④あなたは神の子です(49節)。イエス様を救い主として受け止め、ひれ伏している。その上で天が開かれる約束をいただいた。

Ⅲ.私たちに開かれる
イエス様はナタナエルに「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」(51節)と言われた。これはヤコブの天の梯子が下敷きにある(創世記28章参照)。ヤコブは天の梯子を見たが、ここでは「人の子」とある。イエス様の十字架による救いに他ならない。イエス様ご自身が天と地をつなぐ梯子となられた。さらにイエス様は「もっと大きなこと」(50節)と言われた。ヤコブの天の梯子、ナタナエルへの予見は個人に起ったことであるが、イエス様の十字架で成就した救いは全ての人のためにある。神様の救いが一人一人だけではなく、全人類という無限大の大きさに広げられた。大いなる天の恵みは明らかにされた。

ヤコブはベテルの仮寝で天が開かれる有様を見た。私たちはイエス様の十字架の元に立つ時に天が開かれている。決してイエス様の十字架を離れてではない。「父よ彼らをおゆるしください」(ルカ23:34)との祈りが私のためであり、「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって」(へブル9:12)との血潮を受けるときに天は開かれる。赦されるべき者、潔められるべき者である私たちは十字架の元に立ち続けるものである。