聖 書:コロサイ3:12~17

(12)だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
(13)互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
(14)これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
(15)キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
(16)キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
(17)そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

今夏の働きも主の大きな祝福をいただいた(音伝、3回のキャンプ、キャラバン伝道、講壇交換他)。残暑の中、疲れを覚える時期だが主によって新しくされ、霊的な実りを拝させていただこう。今朝はコロサイ人への手紙が開かれてきた。語調は柔らかいが、初代教会に入り込もうとするグノーシス主義への警告が記されている(2:8以下)。惑わされることなく、先ずイエス様ご自身に目を向けよと語られる。私たちの全てであるイエス様に目を向けよう。

Ⅰ.イエス様による新生の恵み(1-4節)
改めて、私たちはイエス様を信じ受け入れることを通して新しい命に生かされるものである。私たちは死を意識しづらい。まだ先と考えやすい。故事メメント・モリ「死を忘るるなかれ」であるが、この語の起源の古代ローマでは「どうせ死ぬのだから楽しく生きよう」という享楽主義であったという。死は誰にでも訪れるということで公平である。しかし、イエス様を信じ受け入れることは、私たちに全き変化をもたらす。肉体の死に変わりはないが、いのちは神様と共にあり、永遠のうちに導かれることがここに記されている。Ⅰコリント15:55-58には、死に対する勝利宣言がなされている。死への解決は現在の生きる力となり、未来への希望を指し示している。

Ⅱ.イエス様によって捨て去るもの(5-11節)
イエス様の命によって生きるものは罪、とが、汚れから自由にされる。ここには人間の本質的な姿がある。5節の「不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲」は道徳・倫理の問題につながる。8節の「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉」とは感情の問題につながる。特別な形で9節には「うそ」が出てくる。日本人は「うそも方便」と言う。うそは最初にどんなに小さくともやがては大きな罪を産みだす。これらは地上に属する古き人の姿である。地上に属するものは永遠の神様の御国にはつながっていない。これらは私たちの持つべきものではく、決別し捨て去ることによって、神様の御心を果たしていくことができる。

Ⅲ.イエス様によって身に着けるもの(12-17節)
イエス様の内にあって捨てる去るものも、逆に身に帯びるものもある。12節「あわれみ、慈愛、謙そん、柔和、寛容」、13節「忍びあい、ゆるし合い」とあるがガラテヤ5:22・23の聖霊の実に他ならない。神様から出て、私たちに与えられるものと言える。もっと積極的な身に着け方は、私たちの内に聖霊が住んでくださることにある。私たちは聖霊が宿ってくださる聖霊の宮なのである(Ⅰコリント6:19)。さらに、身に着ける特別なものは「愛」(14節)である。イエス様は愛そのものの御方である。愛を持つ究極の方法はイエス様を私たちの内に持つことである(1:26・27)。私たちの内に聖霊と同じくイエス様は住んでくださるのである。神様ご自身を内に持つならば、神様が私を導き、私の全てとなられる。

イエス様、聖霊が内に来てくださるなら神様の御心の全てを満たして私たちは生きよう。ここにこそ私たちの命があり力がある。新しい力をいただく秘訣はここにある。