聖 書:詩篇16:1~11

(1)神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。
(2)わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。
(3)地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
(4)おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない。
(5)主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。
(6)測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。
(7)わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
(8)わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
(9)このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。
(10)あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
(11)あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。

本日9月第3聖日は敬老祝福礼拝である。聖書は「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ19:32)と教え、「しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。」(箴言16:31)とある。ご年配の方々に日々感謝と敬意の念を持つが、改めて今日は表させていただきたい。

Ⅰ.ダビデは見た、ペテロは出会った、私たちは共にある(全節)
聖書全体が永遠を取り扱っているが、詩篇も壮大な内容で描かれる。19篇は創造主の偉大さ、23篇は永遠に至る主の守りと導き、長大な119篇をバックストン師は神の真理、主イエスの救いはすべて記されていると述べる。…16篇はつながりが壮大である。まずダビデの信仰告白、神様への賛美として記された。ダビデは信仰を通して、未だ見ぬ救い主イエス様を見た。ペテロはこの詩篇を使徒行伝2:25-28で引用した。イエス様の十字架と復活が表されている。ペテロは救い主イエス様と出会った証しを語った。今、私たちは救い主イエス様と共に生かされている。詩篇16篇は、イエス様の救いが歴史を通して貫かれ、これからも表され続けていくことが語られている。

Ⅱ.ダビデの信仰告白、真の神様にある幸い(1-4節)
ダビデは真実の神様に寄り頼む幸いを記す。ベツレヘムの羊飼いであった少年の日の選び、ゴリアテとの戦い、サウル王に追われる日々、王となっての諸国との戦い、アブサロムの反逆、バテシバとの過ち …波乱万丈の生涯にダビデ自身の信仰もさやかであるが、神様の守りと導きがあった。ここにダビデの生涯をかけた証しがある。他の神々を選ぶことは悲しみにつながる。イスラエル周辺の土着の宗教、新約ではギリシャの神々に囲まれていた。全て人の手によって造られた偶像を信じ、中には人の血を求めるものもあった。これらを口にさえ上らせない。あだし神の空しさと、真の神様への喜びと賛美との好対照がある。

Ⅲ.ダビデの信仰告白、真の命をいただく幸い(5-11節)
この「測りなわ」(6節)は測量用のものである。ヨシュア記のカナン征服と12部族への分割を思い起こす。ダビデは功績のある王として特別の分配を受けたという記事はない。この世の良き物も多く得ただろうが、「良い嗣業」(6節)とは何より神様による霊的な祝福である。「主を前に置く」(8節)ことから楽しみ、喜び、平安を受けていくことができる。Cf.17世紀のフランスの修道士ブラザー・ローレンス。調理場の奉仕を受け持った。「偉大なことをする必要はありません。神様のために小さなことを私たちはすることができます。焼いているケーキをひっくり返すときも、神様を愛する気持ちで行うことができます。」神様の臨在に絶えず心を向け「完全に神に所有されている状態」を求めたローレンスの敬虔は語られ続けている。

主を前に置く生活は、私たちをいのちの道、永遠の道に導く。この祝福こそ地上のもの、他のもので満たされることはできない。共にこの道を歩もう。