聖 書:使徒行伝7:1~29

(1)大祭司は「そのとおりか」と尋ねた。
(2)そこで、ステパノが言った、「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて
(3)仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。
(4)そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、
(5)そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。
(6)神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。
(7)それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。
(8)そして、神はアブラハムに、割礼の契約をお与えになった。こうして、彼はイサクの父となり、これに八日目に割礼を施し、それから、イサクはヤコブの父となり、ヤコブは十二人の族長たちの父となった。
(9)族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。しかし、神は彼と共にいまして、
(10)あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせた。
(11)時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。
(12)ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、
(13)二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。
(14)ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。
(15)こうして、ヤコブはエジプトに下り、彼自身も先祖たちもそこで死に、
(16)それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。
(17)神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民はふえてエジプト全土にひろがった。
(18)やがて、ヨセフのことを知らない別な王が、エジプトに起った。
(19)この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた。
(20)モーセが生れたのは、ちょうどこのころのことである。彼はまれに見る美しい子であった。三か月の間は、父の家で育てられたが、
(21)そののち捨てられたのを、パロの娘が拾いあげて、自分の子として育てた。
(22)モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。
(23)四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。
(24)ところが、そのひとりがいじめられているのを見て、これをかばい、虐待されているその人のために、相手のエジプト人を撃って仕返しをした。
(25)彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。
(26)翌日モーセは、彼らが争い合っているところに現れ、仲裁しようとして言った、『まて、君たちは兄弟同志ではないか。どうして互に傷つけ合っているのか』。
(27)すると、仲間をいじめていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。
(28)君は、きのう、エジプト人を殺したように、わたしも殺そうと思っているのか』。
(29)モーセは、この言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけた。

素晴らしい働きをなしたステパノが捕えられる。ステパノの捕縛は指導者たちのねたみと悪意からの冤罪である。ステパノの弁明は相手への非難ではなく、自己弁護でもない。ステパノを動かし、語らせたのは自分をおとしめる相手でも変わることのない愛である。敵する相手さえイエス様の元に導こうとする救霊の愛である。これほど強く純粋な愛は神様の愛以外にない。ステパノはイスラエルの神様の救いの歴史を語り、イエス様を指し示そうとする。

Ⅰ.アブラハムにある救い(1-8節)
人類が始まった創世記中、エノクやノアという信仰者は稀で、罪の歴史である。アブラハムは全人類の救いにつながるひな型となった(ローマ4:13-17)。救いの歴史の出発点となったアブラハムは偉大な存在である。へブル11:8「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」とある。何もかも解っているなら信仰は要らない。何も解らないのに飛び込むのは冒険である。神様の言葉が備えられており、神様の導きの中に従い歩むことが信仰である。神様の言葉を聞き、従ったアブラハムを通して神様への応答が救いの要件であることを知る。私たちも信仰をもって神様に応えよう。

Ⅱ.ヨセフにある救い(9-16節)
次にイサク、ヤコブは省かれてヨセフが語られる。ヨセフは兄たちの恨みをかい奴隷として売られエジプトに連れてこられる。家族間で不和は起こりうるが、何ともむごい話である。神様は全ての中に働かれている。エジプトでも理不尽にヨセフは無実の罪を着せられ獄に入れられる。異邦人の奴隷で犯罪者である最低の状態にあった。パロの夢の解き明かしから宰相にまでなる。カナンの地にききんが起り、家族の救いにつながっていく。どんなに辛い状況でも、暗闇の中でも神様の御手の中にあり、その導きは確かである。神様は人の想像をはるかに超えて働かれている。神様の救いの内にあることは神様の大いなる計画の中にいることである。私たちを救う神様は、一人一人に計画を備えられている。

Ⅲ.モーセにある救い(17-29節)
ヨセフの時代に一族はエジプトに移住し、400年の歳月が経つ。日本で一番長い時代が平安時代で約400年。宰相ヨセフの記憶は薄れ、イスラエルの民は迫害下、存亡の危機にあった。この時代に、モーセがイスラエルの民を導きだすように神様が選ばれ、計画されていた。イスラエルの男子は生まれて直ぐ殺される命令があったが、パロの養子として王宮で最高の教育を受ける。その後、羊飼いとして忍耐の訓練を受ける。やがてパロと戦い、荒野の道をつぶやくイスラエルの民を導く。モーセは神様の御手の中で整えられていった。指導者として相応しい器へ信仰も人格も造り変えられて行く。神様の救いは人を導き、造り変えていく全的なものである。

ステパノはイスラエルの民に歴史を通してなされた救い、神様の業を語った。イスラエルは救いの業を知っていても自分のもではなかった。私たちは神様の救いを自分のものとし、その内に歩もう。