聖 書:ゼカリヤ4:1~6

(1)わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。
(2)彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。
(3)また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」。
(4)わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。
(5)わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。
(6)すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。

先週は2019年度のテーマの説教である使徒行伝からの教会の発展を語った。今週はもう一つのテーマであるB.F.バックストン師(以下、B師と略)の「赤山講話」から信仰の継承を語る。ゼカリヤ4章は私たちが受け継いできた御言「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(6節)が含まれている。

Ⅰ.神様の励まし
ゼカリヤの時代は新興のペルシャ帝国クロス王によってバビロン捕囚が終わり、帰国が許された後になる。エズラ記が記すようにイスラエルに帰還した民は4万2千人余と多くはなかった。エルサレム神殿再建にとりかかったが周囲の反対者によって妨害を受けて工事は中断し14年間が過ぎた。イスラエルの民は、神殿再建に目をつぶって日常生活に埋もれて行ってしまった。神様はこの時、預言者ハガイとゼカリヤを立てご自分のメッセージを語らせた。イスラエルの民の信仰を励まし、霊性を引き上げ、神様の工事の完成が導かれて行った。1節「わたしは眠りから呼びさまされた」とある。私たちが目を覚まして、神様の御心に生きることを願っておられる。

Ⅱ.金の燭台の幻
ゼカリヤが見た幻は不思議な金の燭台であり(2・3節)、これはヨハネ黙示録
11:4につながっていく。預言書の黙示は幻ではない、その時に起こり、現代に続き、終末に完成する。金の燭台とはイスラエルの民、現代の私たちである。燭台の上には油を供給する器があり7つのともしび皿に管で油を送る。聖所の燭台には祭司が油を注ぐが、幻では神様によって常に注がれる。油とは言うまでもなく聖霊である。「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」詩篇23:5をB師は引用される。この管が詰まれば油は流れず、灯火は消える。B師は管が流れるようにするには、①「聖別」罪・汚れが聖霊を妨げる。②「信仰」不信仰が妨げる。③「祈り」祈りを怠る、漫然とした祈りが妨げると言われる。聖霊の注ぎによって、私たちは天国の灯火であり、地上の灯火となる(黙示録4:5)。

Ⅲ.金の燭台の実践
2本のオリーブの木が燭台の左右にある(3節)。2本のオリーブの木はこの時代の総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアを指している。2人が神殿再建の重大事に当たって油を注がれて使命を全うしていったことを見ることができる。金の燭台として生かされた人の実例である。B師は「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、…彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」イザヤ61:1~3(抄)を引用される。ゼルバベルもヨシュアも油注がれて、金の燭台として主の栄光を表していった。

神様の油である聖霊の注ぎによってきよくされ、力、輝きが与えられる。それは神様への絶対的な信頼によってなされる。「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(6節)