聖書:ヨハネ15:1~11

(1)わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
(2)わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
(3)あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
(4)わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
(5)わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
(6)人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
(7)あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
(8)あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
(9)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
(10)もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
(11)わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

今年は礼拝説教で霊的な恵みと共に、学びの要素も取り入れる試みをしている。前回のテーマは「礼拝」であり、礼拝が問われるコロナ禍の状況で時機に叶っていた。今日からの「交わり」は、会うことが難しい中での交わりを考え受け止めいく。「主の山に備えあり」神様の導きを覚える。

Ⅰ.神様との交わり
交わりは時間や行動、考え・思いを共有していくことにある。聖書で最も有名な交わりを指す語は新約ギリシャ語のコイノニアである。旧約聖書での交わりは、人と人との交わりは時代を越えて同じである。旧約における神様と人との交わりは、人は神様のしもべという立場である。神の友アブラハム、神と顔を合わせたモーセといった特別な存在はあるが、彼らも変わらない。新約聖書ではイエス様が弟子を選ばれたように師弟関係である。イエス様はその上で、今朝の14節以下に弟子たちを友と呼ばれた。Cf.「慈しみ深き友なるイエスは」。十字架が目前のこの時、イエス様は弟子たちとの交わりが強く深いものであるかを示された。イエス様との交わりを最も良く表すのが「ぶどうの木」の箇所になる。

Ⅱ.神様とつながる
有名なぶどうの木の譬えは、イエス様がぶどうの木、神様が農夫、私たちは枝である。植物の原理は子どもたちも良く知っている。木は地面に根を張って水や養分を汲み上げ、枝は木から供給を受けて葉を繁らせ、太陽光によって光合成を行い、実を稔らせていく。このつながりに脈々と生命が流れ、そこに成長、結実がある。緑がない砂漠に命は乏しく、緑が豊かな場所に鳥は歌い、動物は生き、人が暮らす豊かさがある。イエス様は木と枝がつながっていることから、ご自身と私たちの根本の関係を示された。木が枝に送る水は、霊的にはイエス様の命の水(ヨハネ4:14)である。植物が葉に受ける光は、霊的にはイエス様から受ける命の光(ヨハネ8:12)である。イエス様とつながって命の水、命の光を受けるならば、霊的な実りを結んでいくことができる。

Ⅲ.神様がきよくされる
豊かな実を結んでいくために栄養、光が必要であり、手入れが大切である。果樹園で農夫は次の収穫に向けて剪定をする。一つの枝が必要か不要か、どのように枝が成長するか農夫は考え、デザインして切り詰める。「きれいになさる」(2節)、「きよくされている」(3節)とは、不要なものがない状態である。霊的に不要なものは肉の働き(ガラテヤ5:19-21)であり、霊的なきよい実(同5:22-24)をイエス様との交わりの中で結ぶことができる。刈入れを受けることは痛みを受けることである。陶器師の中にある土くれ(エレミヤ18章参照)が形を変え、火を通され立派な器となる。純金は火で溶かされ不純物が取り除かれる(第一ペテロ1:7)。枝も自分で変わるのではなく、神様の手によって不要なものが取り払われ、きよい実を結ぶ。私たちは恐れることなくきよい神様の御手に委ねていくことが大切である。

私たちが持つイエス様との命と豊かさの交わりは、愛の交わり、喜びに満ちた交わりである(9-11節)。