聖書箇所マタイ21:12~17
21:12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
21:14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
21:15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
21:16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
21:17 イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。
21:18 さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。
21:21 イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。
21:22 あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」
21:23 それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」
21:24 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
21:26 だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」
21:27 そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。
本日は棕櫚の主日、受難週が始まる。イエス様は子ロバに乗りエルサレムに向かわれる。群衆はホサナ、ホサナとイエス様を喜び迎えた。イエス様はエルサレムをご覧になり涙された(ルカ19:41~)。イエス様は十字架に向かわれるが、周囲は何も理解せず、孤独を感じておられただろう。
1.神殿をきよめられる
イエス様は大切な1週間を過ごされるに当たってまず神殿をきよめられた。神殿には動物のささげものを売る人たちがいた。近くならともかく、遠くから礼拝に来る人たちは生き物を連れて来られない。献金のための両替商がいた。献金にはユダヤの通貨しか使えなかったので外国からの人たちは困る。礼拝のために必要であったが、彼らはそれでもうけ、もっと悪いことに神殿の祭司たちは商人たちから高額な場所代を得ていた。
イエス様は両替人の台をくつがえし、鳩を売る者たちの椅子を倒された。イエス様は物を壊し、売物に実害を与えたのではなく、修復可能な形で止められた。イエス様は怒りを持たれたが、第一には神殿での礼拝を形だけのものにしている祭司長・律法学者たちへの怒りであった。
2.血潮によりきよめられる
イエス様が受難週の始まりを神殿のきよめから始められたことは別の意味をも持つ。神殿は動物の犠牲がささげられた。罪を償い、汚れを潔めるためにあった。イエス様は同じ週の金曜日に十字架にかかられる。へブル10章は旧約聖書の規定に従ったささげものではなく、イエス様が一度だけ献げられて(へブル10:10)、赦しを永遠に完成された(へブル10:14)とある。罪が赦されるために、旧約聖書によれば神殿の祭壇で動物の犠牲が必要だったが、イエス様が十字架でご自身を献げてくださったことにより私たちの全ての罪は赦される。イエス様の十字架はどのようにすれば私たちと関わることができるのか。ヨハネ第一1:7には「御子イエスの血」、同1:9には「罪を告白するなら、…その罪を赦し、…すべての不義からきよめてくださいます。」とある。私たちは罪を犯してもエルサレムの神殿に行く必要はない。動物の犠牲をささげる必要もない。イエス様は(へブル10:20)「新しい生ける道を開いてくださいました。」とあり、ここに救いがある。
3.心をきよめられる
旧約聖書の罪の潔めは形だけに成り下がっていた。いくら動物の犠牲がささげられても、ささげた人の心は変わらなかった。神の子であるイエス様がご自身を献げてくださったことは私たちの心を造り変える(へブル9:14)「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」。神様によって心が変えられたならば、礼拝は形ばかりのものにならない。私たちは感謝と喜びを持って神様に礼拝をささげる。イエス様は神殿を祈りの家と呼ばれたが、真心からの祈りを神様にささげることができる。
私のために十字架にかかられたイエス様を覚えつつ、この1週間を過ごそう。