聖書箇所:ヨハネの福音書15:1~14

15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

今年の教会標語は「私たちが互いに愛することにより、外へと向かう力をいただく」である。2つの方向性がある。第一には教会の内にある交わりと一致、第二には教会の外へと向かう宣教と証しとなることを願っている。礼拝でも御言を通して語っていく。私たち一人一人とイエス様とのつながりが「交わりと宣教」の始まりになることを見よう。

1.まことのぶどうの木のたとえ
イエス様は間もなく捕えられ、十字架に向かわれる時に語られている。「まことのぶどうの木」とはイエス様ご自身、ぶどうを手入れする「農夫」は父なる神様、「ぶどうの枝」は私たち人間になる。ぶどうの木と枝は一つに結び合わされ、一つの命に生きる。私たちもイエス様と結び合わされ、イエス様の命に生きる者である。ぶどうの枝は葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結ばせるためにある。8節には多くの実を結ぶことによって神様は栄光をお受けになるとある。イエス様と私たちが結び合えば命のつながりがあり、そこに流れるのはイエス様の愛である「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(9節)。イエス様とつながることはイエス様の愛にとどまることである。
 
2.良いぶどう園のたとえ
イエス様がぶどうの木のたとえを語られる以前に、旧約聖書ではイスラエルの民が良いぶどうとして神様に植えられたということが語られている(イザヤ5:1~7)。イスラエルの民が優れた良い実を結び神様の恵みの証しとなるよう神様は願われた。よく肥えた山腹を耕し、石垣や塀を巡らし、見張りやぐらを建て、良いぶどうを植えた。しかし、そこに実ったのは酸いぶどうであった。良いぶどうの性質が変わることを不思議に思っていた。これは悪い性質のぶどう、野生種と交雑し、雑種になった。イスラエルの民は神様が禁じられたカナンの民と交わった。バアル、アシラといった偶像礼拝や神様への不従順が起こった「質の悪い雑種のぶどうに変わってしまった」(エレミヤ2:21)。神様の祝福を失い、神様の栄光を表すことはできなくなった。

3.私たちへのたとえ
もう一度ヨハネ15章に帰って、私たちは「ぶどうの枝」である。ぶどうの枝だけでは枯れてしまう。ぶどうの木につながっていなければならない。命のつながりであり、ぶどうの木から水や栄養を受け取り、養われ成長していく。葉を茂らせ、花を咲かせ、時至って良い実を豊かに結ぶことができる。豊かに実を結ぶことはイエス様にとどまること、イエス様から決して離れないことに尽きる。そして、神様からの手入れ、ケアを受ける。イエス様にとどまっていれば、イエス様の喜びが内にあふれる(11節)。イエス様の救いに与り、イエス様にとどまる者たち同士が愛し合い、神様の愛を世に現わしていく(12節)。神様の栄光を表すことができる。

私たちはイエス様の救いによって互いに愛し合う関係にある。その愛が豊かであるならば、この世にその恵みを、輝きを表していくことができる。まずそこから始まっていく。私たちの交わりが強められていくことを共に求めていこう。