聖書:マタイ7:13~14
7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

Ⅰコリント10:13
10:13あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

アンドレ・ジッドの小説「狭き門」は恋愛小説であり、禁欲主義批判書でもあります。大辞林は「天国の救いに至る道が困難であることの象徴的表現」と説明しています。わが国は自然災害によって大きな被害を被り、また二人に一人は癌を患い、三人に一人は癌で亡くなる時代です。癌患者の方々との交信の際に「試練」の聖句は良く用いられました。「狭き門」と「のがれる道」について考えて見ます。

Ⅰ.避難の道
第一は「世の常」、試練は常態と言うことです。「生病老死」は人生の四大苦です。私はこの度の経験を通して病気や死は「隣り合わせ」ではなく「向かい合わせ」であることを知りました。そして真剣に「のがれる道とは何か」ということを祈り求めました。試練の中にいる人に寄り添うこと、寄り添われることは必要であり、大切なことです。しかし究極のところ自分一人で向かい合わなければなりません。向き合うのは自分と神です。与えられた言葉は、「神はわれらの避け所、また力である」(詩篇46:1)でした。私たちの最大の避け所、安全地帯はキリストです。十字架のキリストと向き合うことによって、自分の不信仰や様々な罪が示されました。心から悔い改め、信仰をもって主にすべてをお委ねることによって、「のがれる道」を見出すことができました。

Ⅱ. 真実の道
第二は「耐えられないような試練に会わせることはない」、試練は耐えられると言うことです。試練の内容も程度も一人ひとり異なります。ですから他者と比較することはできません。私を一番ご存じの方が、私に適切な試練を与えておられるのです。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)。私は日替わりメニューのような病状には大きな恐れと苦痛を経験しました。その中で私は「耐えることができるんだ」と、真実な神に向き合って、み言葉に固く立った時に、どれだけ大きな慰めと勇気が湧いて来たことでしょうか。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである。」(Ⅱテモテ2:13)

Ⅲ. 究極ののがれる道=携挙の道
第三は「彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいる」(Ⅰテサロニケ4:17)、携挙の道です。「死と向き合って生きる」(平山正実著P153-159)に記されている石原謙(神学者)や熊澤義宣(東京神学大学学長)の事例には大きな衝撃を受けると共に、「のがれの道」を発見することができました。熊澤は最後の二年間はベッドで寝たきりの生活が続きました。彼の課題は「十字架というものがどこにあるのか」ということでした。苦悶の果てに彼は「ベッドの下で・・神から最も遠いはずの一番身近なところにこの十字架がわたしを受け止めているんだ」ということに気づかされたのです。私の課題は「死への道のり」にありました。熊澤の体験を知り、益々キリストの再臨、特に「携挙」への期待と憧れが強くなりました。

平山は彼の信仰を「下への超越」と呼びましたが、携挙の道は「上への超越」と言えます。「狭き門」は倫理の問題というより信仰の問題です。すべては「命に至る道」に通じていることをしっかりと信じ、見つめることが肝要です。その門の狭さや道の細さは、真実な神がそれぞれの人に対してお決めになることなのです。