聖 書 使徒行伝3章1~10節

(1) さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。(3) 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。(4) ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(5) 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、(6) ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(7) こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、(8) 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。(9) 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、(10) これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。

 私たちは何らかの名を背負って生きている。それは先祖の名をはじめ、家族、学校、会社、国家、民族、宗教や教祖の名前等である。それが益として働く場合とそうでない場合とがあろう。
ペテロはここで「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じている。「イエス」には「主は救いである」、「キリスト」には「油を注がれた者」(任職された者)という意味がある。特に旧約時代においては「王・ 祭司・預言者」の任職に際して油が注がれたのである。その三権は分立した ものであって、決して互いに介入することは出来なかった。しかし新約において「イエス・キリスト」と呼ばれる場合は、この三権が一体となっているところに特質がある。
 それでは「イエス・キリストによって歩く」とはどういう意味であろうか 。
Ⅰ.王としての正しさ
王は政治の中心に位置している。政治の使命は世の統治である。すなわち物質的必要を満たすことと、社会の平和である。ペテロとヨハネが「午後3時の祈りの時」に「美しの門」のそばで「施しをこう、生まれながら足のきかない男」に出会ったことは誠に象徴的な出来事であった。「宮の門」において宗教と俗界、精神と物資、豊かさと貧しさなどが対面しているのである。王として権威を持たれるイエス・キリストは決してこの場を素通りされるお方ではない。ペテロとヨハネはイエス・キリストを信じる者として「わたしたちを見なさい」と声をかけたのである。
 ここに「キリストの名によって歩く」キリスト者の使命としての模範がある。
Ⅱ.祭司としての豊かさ
祭司は宗教の中心に位置している。宗教の使命は精神的必要を満たすことである。ペテロは「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(6)と命 じ、「彼の右の手を取って起し」(7)たのである。ペテロには「金銀」つまり物質的な豊かさはなかった。しかしこの世の人々が持ち合わせていない「あるもの」があった。その「あるもの」とは、「キリストの名」であって、それはキリストに対する信仰であり、祭司としての豊かさであった。 彼はそれを温存するのではなく、惜しむことなく与えたのである。
 ここに「キリストの名によって歩く」キリスト者の責任としての模範がある。
Ⅲ.預言者としての確かさ ペテロが物乞いに「キリストの名によって歩きなさい」(6)と命じたとき、彼の足は「強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した」(7,8)のである 。さらに「神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」(8)ので ある。「イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くした」(16)と記されている通りの、確かな奇跡が起こったのである。
 ここに「キリストの名によって歩く」キリスト者の希望としての模範がある。
 イエス・キリストの名の王としての正しさ、祭司としての豊かさ、預言者 としての確かさを深く理解し、キリストの名によって歩く者とさせて頂きましょう。