聖 書:ヨハネ4章1~14節

(1) イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、(2) (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)(3) ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。(4) しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。(5) そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、(6) そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。(7) ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。(8) 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。(9) すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。(10) イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。(11) 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。(12) あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。(13) イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
(14) しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

 今年8月24日(水)から26日(金)にかけて韓国ソウルにおいて第2回日韓親善教会宣教大会が行われる。これまで両国は「近くて遠い国」と言われてきた。それは長期間わが国による韓半島植民地支配という不幸な歴史があったからである。しかし「2002年Wサッカー大会」を契機として韓流ブームが起こって友好関係が深まってきた事は喜ばしいことである。ユダヤとサマリヤは「近くて遠い国」であった。考えれば神と人間もまた「近くて遠い国」ではなかろうか。イエスとサマリヤの女の関わりの中に関係改善の秘訣を見出すことが出来る。
Ⅰ.わたしが与える水-水の実体-
ここに「サマリヤを経ざるを得ず」という有名な一句がある。ユダヤからガリラヤへはサマリヤ経由なら三日間で行くことが出来た。しかしユダヤ人はサマリヤを避けてヨルダン川の東側を通った。BC720年頃、アッシリヤがサマリヤの北王国に侵入し、その結果サマリヤ人は他民族と雑婚し、ユダヤ的遺産を失ってしまった。その後ユダヤ人とサマリヤ人は反目し合う間柄となった。
 イエスは一人の女性を導くために「サマリヤを通過しなければならなかった」。イエスは身を低くして「水を飲ませて下さい」と声をかけ、個人面談の時を持たれた。そして彼女の霊的渇望の必要を満たすために「わたしが与える水」を提示された。
 イエスは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)と言われた。「水」は聖霊の象徴とも言われる。牧師は礼拝の最後で「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わり」(Ⅱコリント13:13)と祈るが、「わたしが与える水」とはこれを指していると考えられる。
Ⅱ.水を飲む者-水の実体験-
「水」は提供されているが、これを飲まなければ話にならない。しかし飲むためには、渇くと言う意識がなければならない。イエスはサマリヤの女に霊的渇望を自覚させ、水に対する興味を抱かせた。彼女は「その水をわたしに下さい」と要求した。彼女は男性遍歴を重ねてきたが、それでも真の満ち足りた生活を送ることは出来なかった。
 「飲む」という行為は何を意味しているのか。それは水の恵みを自分のものとする経験である。そのために必要なことは、第一に渇くことである。つまり自分の罪を認め、悔い改めることである。第二に提供されている水を疑わないで飲むこと、つまり信じることである。
サマリヤの女は5人の夫がいたという事実を認めた。そして「この人がキリストかも知れません」(29)と告白した。
Ⅲ.泉となり、わきあがる。-水の実体効果-
 イエスとの面談を通して彼女のイエスに対する意識が「9ユダヤ人→12ヤコブより偉い人→19預言者→29キリスト」へと変化している。次に彼女の関心事が礼拝論にまで及んでいることは驚きである。イエスもまた「あなたと話をしているこのわたしが、それである」(26)とご自身を明かしておられる。更に多くのサマリヤ人が「女の言葉によって、イエスを信じた」(39)のである。
私たちもイエスがキリストであると信じる時に、人生そのものが大きく変化する。そして、命の泉(箴言4:23,14:27,36:9,黙7:17)、知恵の泉(箴言18:4)、清めの泉(ゼカリヤ13:1)などが沸き上がる豊かな人世を歩むことが出来るのである。
現代は文明砂漠の真っ直中を歩んでいる。多くの人々は寂寞とした人生を歩んでいる。お互い「永遠の命に至る水」で満たされた者とさせて頂きたい。