聖 書 ヨハネ1:1~13

(1) わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、(2) 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、(3) テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。(4) すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。(5) ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。(6) ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。(7) ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。(8) さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき、(9) 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。(10) 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。(11) すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。(12) ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。(13) そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。

 急速に変化する世の中に大きな戸惑いを覚える昨今である。広島や栃木における児童殺害事件の犠牲者や家族のことを思うと言う言葉もない。また耐震強度偽装問題には、人間の良心に対する一縷の望みさえも奪われてしまう寂しさと悲しみを覚える。「これまで性善説に立ってきたが、今後は性悪説も考えざるを得ない」とテレビで語っていたコメンテーターの言葉が印象的であった。
 聖書は創世記において、最初の家族の中で殺人が行われたことを記している。また「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は罪を犯した」(ローマ3:10,23)と人間の実情を示している。時代はますますその暗闇の度合いを増し加えている。そこには何らの希望も見出すことはできない。
Ⅰ.この世の光である(1~5)
 光にはいろいろな性質があるが、まず考えられることは光明であり、希望である。光と闇は同居することが出来ない。光の力が強ければ暗闇は放逐される。逆に暗闇の力が強ければ光はその力を失ってしまう。耐震強度偽装事件で責任をなすり合っている建築主、設計士、建設会社、検査機関には僅かの光も見出すことは出来ない。
 聖書は「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。・・・そして、やみはこれに勝たなかった」 (4,5)、「わたしは世の光である。」(ヨハネ8:12)、と語っている。
ここに希望がある。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく」(同12)とある。世の光に照らされて、明るい人生を歩む者でありたい。
Ⅱ.まことの光である(9~11)
 光の性質として次に考えられるのは真実であり、清さである。暗闇の世界は偽りの世界である。真っ暗闇では真偽を見極めることが困難である。そこに目をつけて偽物、贋作が横行するのである。本当の偽物は限りなく本物に近づいてくるのである。政治の世界、教育の世界、権力の世界、芸術の世界、それに最も神聖なる宗教の世界でさえも決して例外ではない。この世の中、どこに真理があり、本物が存在するのであろうか。
 キリストは「すべてを照らすまことの光」(ヨハネ1:9)である。レーザー光線には病める部位を除去し、癒す力がある。まことの光に照らされて、真実な人生を歩む者でありたい。
Ⅲ.命の光である(12~13)
 光の性質として更に考えられるのは命であり、動力である。太陽光線は大きなエネルギーをもたらす。それは電力となってこの世界を動かしている。「命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)とある。キリストを信じる者には「神の子となる力」(ヨハネ1:12)が与えられる。それは血筋、肉の欲、人の欲によるのではなく、ただ神によってなされる。キリスト者にはこのような命が与えられるので、悪魔の誘惑に打ち勝つ力強い人生を送ることが出来るのである。命の光に照らされて、力強い人生を歩む者でありたい。
 
 世の光、まことの光、命の光に照らされて、明るく、真実で、力強い人生を歩む者とさせて頂きましょう。