聖 書 ルカ18:1~8

(1) そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。(2) また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、(3) ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。(4) さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、(5) 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。(6) ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。(7) ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。(8) ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。

 世の中には絶望的な局面に遭遇することがあると思うのです。イエス様は、“世の終わりには、絶望的とも思われる恐ろしい時代が来る”(ルカ17:22~37)とお話しになられてから、ひとつの譬え“不義なる裁判官とやもめ”のお話をされ、“どんな困難な、また恐ろしい時がきても、失望しないで、信仰に立って祈り続けるように”と仰せられたのです(ルカ18:1)。今日は、この譬えから、“祈り続けることの大切さ”を学んでみたいと思います。
1.譬えの内容
1) 不正な裁判官とやもめの訴え(2~3)
当時の裁判官はローマから派遣されており、普通は3人か5人かであるのに、たった一人の裁判官にすべてが任されていたのです。もとよりローマからすれば、ユダヤ人は奴隷の民族くらいにしか見ておらず、従って正しい裁判などは行われるはずもなく、しかもこの裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」(2)で、ただ私腹を肥やすことに汲々としていたのです。
 一方、日々不当な仕打ちで苦しんでいた一人のやもめが、その痛みに耐えかね、裁判による決着を願い出たのですが、裁判官は初めから取り上げようとしなかったばかりか、これを無視したのです。しかしこのやもめは裁判官の下に足繁く通い、裁判での決着を願い続けたのです。
2) 裁判官の変心(4~5)
 たびたび裁判官の所に来ては裁判による決着を願い続けるやもめに、さすがの非常な裁判官も迷惑千万とばかりに、二度と来ないように、彼女のために裁判をしてやろうと決断したのです。しかしこれは彼女のためではなく、自らの保身のためでしかなかったのですが、彼女の熱心な嘆願は、たしかに裁判官の心を変えたのです。
3) 主の選民への励ましと期待(6~8)
 イエス様は「この不義な裁判官でさえ、一人の熱心な願いに、しぶしぶでも応えようとしたならば、まして真実と憐みに富んでおられる神は、日夜苦しみ叫ぶ選民のためにお応えにならないはずはなく、必ず正しい裁判をして下さる。」(7)と慰め励まされ、そしてやがて主の再臨の日には、信仰を失わずにいて、私を迎え出てほしいと期待されたのです。
2.祈り続けることの大切さ
1) 目標を乗り越えるために
祈る者が、果たしてこの祈りは聞かれるであろうかと思われるほど、高い目標であったとしても、このやもめの執拗な願い求めた嘆願(願い続ける祈り)が、その目標とのギャップ(落差)を乗り越えさせた要因であると知らされるのです。そのために祈りを積み上げていくこと、祈り続けることが大切なのです。
2) 御言葉を自分のものとするために
御言葉は、本質的に受け入れることを求めますが、受け入れる側において、その思いと御言葉との間にギャップがあるときは、不安、動揺、ある場合は不信がおこるものなのです。こうしたギャップを埋めるものが祈りであり、祈りの継続なのです。世々の多くの聖徒たちに臨んだ御言葉は、例外はあっても、すべてすんなりと受け入れられたわけではなく、疑問や不安や不信の中にも祈りながら、やがて御心が示されて、従ったのだと思うのです。イエス様も十字架上で、神に捨てられたが、神の御心を示され、神のみ手に委ねられたことによって、贖いの業が全うされたのです。
 私たちに臨んだ、また与えられたお言葉にギャップを覚えたとしても、またいかに高いハードル(障害)であったとしても、失望と信仰のはざまで悩むことなく、しっかりと信仰に立って祈っていく時、そのギャップは埋められ、そのハードルは必ず乗り越えることができると信じ、神を信頼して、祈り続け、勝利の人生を歩んでまいりましょう。