説教題 『神のみわざが現れるため①』  「目の不自由な人の開眼」
聖 書 ヨハネ9:1~12

(1) それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。(2) また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして(3) 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。(4) また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。(5) だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。(6) 弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。(7) さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、(8) またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。(9) そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。(10) 使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。(11) ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。(12) それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。

人間には視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚という五種の感覚がある。そのうちどれか一つ欠けても日々の生活に不都合が生じてくる。特に視覚、聴覚の障害は当人のみならず周囲の人々の人生を左右するほどの大きな問題である。
 本日のテキストは「生まれつき目の見えない人」の話である。ここから今日的なメッセージを聞くことにしよう。
1.弟子たちの関心と質問 (1~2)
 弟子たちの関心事は〈だれが罪を犯したためか、本人か、親か〉という点にあった。この発言は質問の形をとっているが、その背景には「障害は罪の結果である」という因果応報的な認識が横たわっている。これは洋の東西を問わず、今も昔も変わらないのではなかろうか。この質問の意図は原因の解明にあったが、それは同時に、当事者の責任を追求することでもあった。当事者はすでに大きな苦しみを背負っている訳であるから、二重の苦しみを与えることになる。
 我らもまたたとえ善意からであるにせよ、相手の心を傷つけるような結果を招くような軽率な言葉を発することがありはしないか、深く反省しなくてはならない。生産性のない、無意味な議論は極力避けなくてはならない。大きな苦しみをになっているのは他でもなく当事者自身であることを忘れてはならない。
2.キリストの判断と命令 (3~7)
弟子たちの質問は〈あれか、これか〉の二者択一法であった。それは他の答えを考えることができなかった弟子たちの限界であった。この質問に対してキリストは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という第三の答えを用意されていた。何という慰めに満ちた力強い言葉であろうか。今日までどれ程多くの人々がこの言葉で立ち直ることができたことであろうか。その後キリストは「わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言われた。キリストには十字架にかかられるまでという時間的制限があったのである。そして「地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』」と命令された。我らは傲慢な者であって、命令には簡単に従いにくい者である。そこで神は時々試練という負荷をかけられることがある。この場合の「どろを塗る」とはそういう意味であって、どうしても池に行って顔を洗わざるを得ない状況を作られたのである。
3.盲人の服従と開眼 (8~12)
盲人はキリストの命令に即座に従い、顔を洗った。すると即座に見えるようになった。近所の人々や彼の知人たちはこの奇跡をめぐる周辺的な問題に関して議論した。しかし盲人は「行って洗うと、見えるようになりました」と奇跡の事実を正直に証言した。それは決して安易な事ではなく、事と次第では大きな被害を被ることさえ予測された。しかし彼はいたずらに議論に走ることなく、また権威を恐れることなくキリストの言葉に従ったのである。ここに我らキリスト者の使命がある。
どれだけ多くの人々が様々な問題で悩み苦しんでおられることであろうか。二者択一の方法では真の解決を見出すことはできない。「神のみわざが現れるため」というキリストの判断の中にこそ真の解決のあることを証しする者でありたい。