聖書:イザヤ7:10-14

10 主は再びアハズに告げて言われた、
11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。
12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。
13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。
14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

 肉体を持っている被造物には住まいが欠かせないものである。ところで、神様は霊のお方なので家は要らない。しかも、天地万物、全宇宙でも神様のお住まいとしては物足りない。その神様がこの地上にいくつかのお住まいを象徴的に設けた。神様が私たちと共におられる証拠として来られた日がクリスマスである。「インマヌエル」を色々の意味で考えられるが、私達の中にある神様の「お住まい」と言う意味で考えてみよう。
1.神様のお住まいの変遷史
 (1) 幕屋、(2) 神殿、(3) 教会(クリスチャンの群れ)
 神様は民の心の中に神様の居場所が無くなることに激怒してきたのである。例えば偶像崇拝など。今日のみことばに出てくるアハズ王がその例である。彼は20才に王になった。アハズ王は南王国の歴代王の中で最も悪い王であった。列王記下16章と歴代志下28章には彼の悪が満ちている。そのことで12節の彼の答えは不信仰によるものである。
2.神様のお住まいと言う意味
(1)共に食べる
 黙示録3:20「・・わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」、いつも共に暮らす家族は同じ食卓を使う。同じ食卓を使うことは家族の特権の象徴でもある。しもべは同じ食卓に座れない。家族は全てのものを共にする。席を共にし、同じ食べ物を共にする。神様の全てのものを共にする。私達は神の子供と言う特権を持っている。しかし、具体的にどんな特権を持っているかすらまだ知らないものが多い。まだ使っていない特権がたくさんあるはずだ。その特権を十分使えるようになりたいのである。
(2)共に交わる
 子供はいつも父に何かを要求する。父は喜んで子供の要求に応じる。神様のみわざをいつも期待すること、常に要求することは良きクリスチャンの態度である。祈らないこと、期待しないこと、要求しないことは不信仰である。アハズ王の態度である。けれども神様はご自分の民を決して捨てない。ユダ王国の最悪の王の時代にインマヌエルの預言があったことを覚えたい。インマヌエルの預言は信仰の良き時代ではなくて、最も信仰がない時代であった。神様は私達と共におられる。良き信仰の時期はもちろん、信仰がなくて神との交わりがしばらく切れている瞬間でも神様は共におられる。アハズ王のような悪い人が溢れる時代さえインマヌエルの預言があった。私たちはアハズ王ほど悪くはない。だからもっと神様との交わりに励みたい。
 クリスマスは神様が私たちと共に暮らしたくて、暮らしたくて、自ら私たちの体になってこの地に来られた日である。神様のお住まいを私たちの中に築き上げるために来られた日である。