聖 書:ヨハネ1章1節~5節、

(1) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(2) この言は初めに神と共にあった。(3) すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(4) この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。(5) 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 
聖書:ヨハネ1章 9節~18節

(9) すべての人を照すまことの光があって、世にきた。(10) 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。(11) 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(12) しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(13) それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(15) ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。(16) わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。(17) 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。(18) 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

 「タワーの灯消え 愛ともる 午後8時 集うカップル」というタイトルの記事が23日(土)朝日新聞朝刊に掲載された。続いて次のような記事があった。「午後8時、東京タワーの照明が消える瞬間を二人で見ると幸せになれるという〝ライトダウン伝説〟タワーを管理する日本電波塔が『クリスマス・ライトダウンストーリー』と名づけて昨年から始めた。本来は午前0時の消灯だが、午後8時から30分間、繰り上げてサービスした」。
 聖書は2千年前に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」と告げている。この光について考えてみよう。
Ⅰ.まことの光の本質
 この光は何を意味しているのか。我らの周りにはいろいろな種類の光が存在している。自然の光としての太陽光線をはじめ、人工的に発光させる
電気やろうそくの火などがある。しかしここではそうした物質としての光ではなく、人の命、心の光、希望の光、愛の光というような精神的なものを意味している。
 このような光は被造物である人間が創造したり、考え出したりできるものではない。聖書は「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(4)と記し、さらに「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(14)と記している。つまりこの光の本質はキリストであり、神ご自身を指しているのである。
Ⅱ.まことの光の使命
 この光は何のために出現したのか。この光である神は「すべての人を照らす」ために世に来られた。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(5)。キリストは「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(8:12)と言われた。
 発光ダイオードの発明によって、この世は素晴らしい光で満たされるようになった。それに反して人々の心はますます暗やみに満たされている。
Ⅲ.まことの光の効力
この光はどのような効力を有しているのか。聖書は「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(12)と教えている。どんなに美味しいご馳走でも、見ているだけでは美味しくもなく、お腹も大きくはならない。人工的な光が照り輝くこの世にあって、今こそ「まことの光」と「偽りの光」を明確に選別し、真に命溢れる輝かしい人生を歩む者とならなくてはならない。
クリスマスとは神が人となられた日である。やみの中に輝く光、人の命の光は私たちを、悪魔の子から神の子に生まれ変わらせて下さる。キリストを救い主と信じ、受け入れる者とならせて頂きたい。