聖書:詩篇121篇
1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
4 見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
5 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
6 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
7 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
8 主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。
この詩篇は、都もうでのときにエルサレムの山々を望んで歌ったものであろうと言われています。その内容は、天地を造られた方、イスラエルを守られる方、そのお方の見守りの中で、自分自身の安全を喜び楽しむ、信頼に満ち溢れた詩篇です。
1.目をあげる
目をあげるといっても、対象者を慕って目をあげたり、憎悪と反感を抱きながら目をあげたり、ただ観察するために目をあげたり、では、同じ目をあげても内容は全く違うものとなります。この詩篇の記者は、エルサレムの山々を、聖所を見あげて、私の助けは、どこからくるのだろうかと問いかけています。何かに行き詰まったとき、自分に対してこの問いかけをすることは、とても意味あることです。そんなことはわかっていると、問いかけることの馬鹿馬鹿しさを感じる方がおられるかもしれません。私たちの信仰は、絶えず神を仰がなければ、真の信頼を継続できないのです。それは、私たちの周囲の出来事が信頼に値するかどうかで、神への信頼を測ってしまうことがあるからです。そして必ず、こういいます。神が助け主だとわかっているのだけど・・・。語尾を濁し、確信が揺らいでいることに気がつかないのです。そういうときこそ、目をあげて私の助けはどこから来るのだろうかと自分に問うことです。今私はどこに信頼をおこうとしているのだろうかと問うことです。目に見えるものに信頼をおこうとしている自分の弱さに気がついて、自分を見守っておられるお方に心を注ぐのです。
2.守るお方が見えてくる
3節から8節まで、「守る」ということばが、6回も繰り返しでてきます。神の守りは豊かであり、細かく、隅々までに行き渡ることが述べられています。私たちの歩みはすべることなく守られ、守るお方は、眠ることなくいつ何時でも見守り、昼間であろうと夜であろうと襲いかかってくるあらゆる災いから、まぬかれさせて、どこへ行こうと、どこから帰ろうとそのすべての道々で神の守りがあるというのです。つまり、神の側には失敗はありません。私たちの側に失敗があるのです。不信仰のあるところで、主を信頼しないところで、主の御姿を見出すことはできません。主はそこにおられるにもかかわらず、見えないのです。
私たちは、日々の生活の中で、主に信頼をおこうとしない自分の弱さを知って、主を仰ぎながら、助けも求めるとき、すぐそこにいてくださる主を見出すことができます。そして、そのお方が、私たちの思いをはるかに越えて十分な助けと守りを与えてくださることがわかるのです。