聖書:詩篇126篇

1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

 この詩篇は、バビロン捕囚から解放されて、まるで夢を見ているかのように呆然としつつも、その大きな喜びに声を上げている民の姿をみることができます。過去の苦しみを思い出し、今ある恵みを心から感謝すると共に、いまだ捕囚の中にいる同胞たちの救いのために祈る祈りがここにあります。またこの詩篇には、救われた者たちが まだ救われていない民のために福音の種をまく同労者たちへの励ましがあります。
1.収穫のための労苦
 農作物を収穫するために、どんなに労力が費やされるか、経験したものでないとわかりません。その労の大変さに嫌気がさして、農家に生まれたものがあとを継ぎたくないと出て行くことはよくある話です。実がよく実るために、細かい手作業は大変なものです。相手は生きていますから一日として休みもありません。魂の収穫においても同じことが言えましょう。キリスト教に無関心な人が関心を抱くようになるまで、伝え続けることは忍耐と労苦がいります。また宗教など必要ないと頑張って生きている人々と関わると精神的にも疲れを覚え、避けたくなるものです。楽に伝道したいと思っても、そういう道はありません。しかし、キリストに対して素直な魂に出会うとき、そこにくるまでに聖徒たちの多く祈りと労があったことがわかります。
2.収穫のための涙
 魂を獲得するまで、祈り、忍耐し続けることは簡単なことではありません。そこには明るく楽しくできるような状態ではないのです。バックストン師は、日本を愛して、日本人の救いのために英国から来てくださいました。語学研修の後、松江に伝道拠点を置かれました。集会を開くごとに盛会であったかというとそうではありませんでした。集会中に暴動が起こり、警察が入って事態を鎮圧させることがありました。日本を愛してこの地に来たのに、その愛すべき日本人から受け入れられないという屈辱は涙とともに悲しみもだえるような思いではなかったでしょうか。それはイエス様がお受けくださったものと同じものでした。いかに真心こめて伝えても、効果がなく失望して涙するときがあるかもしれません。それでもいいのです。その涙は無駄にはならないからです。
3.収穫の後の喜び
 涙を流し忍耐するときが長くても、必ず喜びの声を上げるときがやってきます。束を携えて帰ってくると預言されていますが、このときの喜びは、どんな喜びでしょうか?多くの束を携え、こんなにも救われたと喜ぶのでしょうか?この喜びは、表面的な出来事に対する喜びではありません。魂が如何にかたくなで、信仰を持つのは無理かもしれないと思わせるほどの困難さを経験したものにとって、かたくなな魂が砕かれて救いを経験するとき、神の生きた業を見るのです。間違いなく主は働いてくださった。そしてこんな私にこのような大きなことを見させてくださったと神の業そのものに対して喜ばずにはいられなくなるのです。
 ネゲブの川は、夏には涸れていますが、秋の雨季になればあふれるばかりの川となるのです。その川のように回復してくださいと4節で祈っています。新しい年、神様は私たちの思いをはるかに越えてあふれるばかりの業を行ってくださることでしょう。その業を先取りして感謝ながら、今ある目の前の労苦を惜しむことなく、福音の種をまき続けさせていただきましょう。