聖書:ルカ23章32節~38節

32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。
33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

 イエス様が十字架にかけられて、最初に出たことばは、とりなしの祈りでした。それは、赦しの愛に満ちた祈りでした。イエス様は、かつて敵をも愛しなさいと言われました。その言葉の通り、ご自身もののしられ、あざけられている渦中の中で、敵のために祈られたのです。ここに神の愛をみます。
1 .苦しみの中で表された愛
 私たちが人に対して愛を表すことができるときは、自分の中に喜びがあるときやゆとりのあるとき、また人から愛を頂いたときなど、自分の調子の良いときがほとんどです。自分にゆとりのないときに人への愛を表すことは難しいものです。最も不機嫌なときに愛を表すことは不可能に近いことでしょう。しかし、イエス様はこの地上でもっとも苦痛だといわれている十字架の上で、愛をあらわしなさいました。最悪の状態であらわされた愛です。神の愛は、自分の状態に左右されないであらわされるものであることがわかります。なぜ、イエス様は、そのように愛をあらわすことができたのでしょうか。その秘訣は、「父よ」と呼びかけられたところにあります。イエス様は、父なる神との親しい交わりがいつもありました。それは、十字架の上でも変わりなくありました。父なる神を見上げ、この方との交わりの中で豊かな愛を注がれていました。私たちも、いかなる中でも神との交わりを断たせてはなりません。祝福をいただける道を閉ざしてはならないのです。それは、いつも天に向けて開いている道であり、祈りによっていつも通じる道なのです。
2 .自分を痛めつけるものへの愛
 罪が一つもないのに罪人と呼ばれ、ののしられ、罵倒されたイエス様は、なぜ自分を痛めつけるもののために祈ることができたのでしょうか?わたしたちは、自分を痛めつけるものに対して、愛をあらわすことはできません。むしろ、憎しみと復讐心に燃えるものです。また、忍耐はできたとしても、赦すなどとんでもないことだと考えてしまいます。わたしたちは、その人が自分にしたことばかりを見ていたら、赦すことはできません。イエス様は彼らがしていることに目をとめませんでした。彼らがどういう状態であるかを見ておられました。イエス様が救い主であることがわからずに、イエス様を十字架につけてののしっている彼らは、自分が何をしているか全くわかっていませんでした。つまり、「無知」だったのです。自分が何をしているのかわからずにいる彼らを憐れみ、祈られたのです。
 このような愛は、地上にはありません。どんなに素晴らしい人間でもその人のうちには存在しない愛です。しかし神が私たちに注がれる愛は、このような愛なのです。私たち自身も無知なものです。そのようなものを愛して赦し続けてとりなしてくださるお方をはっきりと知るとき、私たちも苦しみの中にあっても、虐げの中にあっても、その人を赦し、とりなしていくものと変えられていくのです。