聖 書:ヨハネ 11章31節~44節

(31)マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。(32) マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。(33) イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、(34) 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。(35) イエスは涙を流された。(36) するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。(37) しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。(38)イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。(39) イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。(40) イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。(41) 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。(42) あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。(43)そう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。(44) すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

主はローマ12章15節で「 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と教えて下さった。主は自らこの教えの模範を見せて下さった。イエス様はラザロの二人の遺族マルタとマリヤと共に泣いた。今も主は私達と共に喜んで下さり、私達と共に泣いて下さる。
1.共に悲しんで下さるメシア
33節「激しく感動し、また心を騒がせ」、38節「イエスはまた激しく感動して」。イエス様の感情をこんなに生々しく表現しているところはあまりない。口語訳では「激しく感動し」、新共同訳では「心に憤りを覚え、興奮して」、新改訳では「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」と訳されている。このようなイエス様の悲しみはマルタ、マリヤの遺族の悲しみと同じものであった。主は二人の遺族と心を一つにして下さった。
2.共に涙を流して下さるメシア
35節で「イエスは涙を流された」。涙は悲しみの代表的な象徴である。愛すれば愛するほど、関係が親しければ親しいほど涙が多い。主は私達の涙を知っている。私が泣く時、主も泣いて下さる。私が辛い時、主も辛い。私達は主の体の一部分である。主は私達と一心同体である。「イエスは涙を流された」のギリシャ原語は「イエス様泣いた」と二つの単語だけだ。聖書の中で最も短い一節だが、最も重みがあって、私達に感動を与えるみことばだ。
3.共にいて下さるメシア
38,39節でイエス様は死んでいるナザロの所に来られた。そして「石を取りのけなさい」とお命じになった。この石は生きている人と亡くなった人を隔てる物である。この世と死者を隔てる境界線である。いくら愛している家族でさえこの石の前では止まる。それ以上は近づかない。しかし、主はその臭くなっているところに来られた。私達の霊的な状態がナザロのようなものだ。私達の心はこの世の罪で腐っていて、ものすごい悪臭(あくしゅう)がする。誰も近づけないほどの罪の臭みがある私達のところに主は来られた。そして罪で腐っている私を捨てないで共にいて下さる。
4.共に復活するメシア
主は私達と共にいて下さるメシアだが、力がなくて、解決方法もなくてただ泣いて下さることしか出来ないメシアなら私たちに望みはない。結局、死の悲しみと涙で人生が終わるしかない。しかし、主は私達と共に泣いて下さるだけではなくて私達の涙を笑いに替えて下さるお方だ。悲しみを喜びに、死を永遠の命に、絶望を希望に変えて下さるお方だ。「ラザロよ、出てきなさい」と大声で呼ばわれるお方だ。死の勢力を打ち破るお方だ。私達はいつか主にあって死に、主にあって復活する。現在、私達はしばらく主と共に悲しみを受けますが、やがて主にあって復活する。「クリスチャンならば地上の暗い悲しみは、いつの日か天国の明るい歌声に変えられる」(ディリーブレッド2008.3.1引用)