エペソ2章8節~9節

8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

ルカ17章5節~6節

5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。
6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。

  一般に“信仰”とは神を信じることですが、その信心の対象である神がどのような神であるかが問題です。日本人の多くはすべての物に魂があるとする汎神論的立場に立つように思われますが、人間の手で造られた偶像を拝むことは、60年以上前の私の少年の頃とそう変わっていないように思われます。しかし、キリスト信仰は、自分の内におられる神を信じる信仰で、インマヌエル信仰と言われるものです。このキリスト信仰について二つの基本的理解を学びたいと思います。
1 .信仰は神からの賜物 (エペソ2:8) 
 信仰について、個人伝道EE3では、次のように説明されています。「物乞いが王の賜物を受け取ろうと差し出す手のようなものである。」と。
これを次の3つの聖書の譬えから見てみます。
 (1) タラントの譬え (マタイ25:14~30)
 (2) ミナの譬え  (ルカ19:11~27) 
 (3) ぶどう園の譬え (マルコ12:1~12)
 これらの譬えで共通なのは、登場する主人が夫々の僕や農夫たちに夫々の物を預けられて、旅に立たれたことです。ここで主人は“神様”、タラント、ミナ、ぶどう園の夫々を“信仰”の意味に捉えると、(1)、(2)では、やがて主人が帰って来た時、主人は夫々の決算書を見、預けられた以上に儲けた者を賞賛され、それを活用しないでしまっておいた者を叱責されました。従って、神様は私たちに与えられた信仰を働かして、良い福音宣教の実を結ぶよう求められておられるのです。それを死蔵したり、私物化したりしてはならないのです。(3)については、主人はきちんと整えられたぶどう園を貸しておられますから、わたしたちに賜わる信仰は完全なものであると知らされるのです。ですから与えられている信仰を用いて、夫々にふさわしい宣教の実を結んでいくことです。
2 信仰は増すものではなく持つもの (ルカ17:5~6)
 弟子たちは“わたしたちの信仰を増してください。”とイエスさまにお願いしたところ、“もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら・・・・”と仰せられたのは、信仰を増す(成長させる)ものではなく持つべきものであり、そのような信仰を持っているならどんな困難なことでも解決できるのだと教えられたのです。信仰の成長という場合は、“成長させてくださるのは神である”(第一コリント3:6) ことを忘れてはならないのです。まかれた種は一瞬も元の状態に留まることがない(成長する)ように、与えられた信仰も絶えず与えられつづけ、時々刻々新しくなっていくのです。(日々新しくされる。)
 成長は人間の努力や力のよるのではなく、神のみ業なのです。聖書には次のようにあります。わたしたちは“日々自分に死に”(第一コリント15:31)、“内なる人は日毎に新たにされ”(第二コリント4:16)、“日々に自分の十字架を負うて主に従い”(ルカ9:23)、“日々聖書を調べる”(使徒 17:11)。このように、わたしたちは日々聖書に向かい、日々のディボーションがいかに大事なことであるかが分かるのです。主もまた、“日々われらの荷を負ってくださる”(詩篇68:19)のです。
 わたしたちに与えられている信仰が、たといからし種一粒ほどの信仰であったとしても、主は“わたしの恵み(信仰)はあなたに対して十分である”。(第二コリント12:9) と仰せられます。お互いに与えられている信仰を日々生かして用い、福音宣教の良い実を結ぶ信仰生活を全うしてまいりましょう。