聖書:ヨハネの黙示録2章8節~11節 

8:スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。
9:わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
10:あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。
11:耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。

 七つの教会に送られた手紙の第二の教会はスミルナにある教会です。よく指摘されることですが、七つの教会の中でスミルナとヒラデルヒアの二つの教会に宛てた手紙には非難の言葉がありません。他の五つの教会が賞賛と共に「あなたに対して責むべきことがある」と非難されているのに比べれば、実に驚くべきことであり、注目すべきことであると思います。是非とも私たちもそのようでありたいと願います。
Ⅰ.神にいのちを与えられた教会 (8~9)
 七つの教会にあてれた手紙の発信人は他でもなく神ご自身なのですが、それぞれの教会には異なった言葉が使われています。エペソ教会は「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者」ですが、スミルナ教会は「初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者」となっています。発信人は死に打ち勝たれたお方であり、いのちを与えることが出来るお方なのです。すでに学んだように、当時の七つの教会は厳しい迫害下にありました。神はこうした苦しい事情を十分に知っておられたのです。「あなたの苦難や、貧しさを知っている。・・・サタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」(9)とあるとおりです。神に知られることによって、苦しみは半減したことでしょう。神は「しかし実際は、あなたは富んでいるのだ」と言っておられます。本当の富める者とは神によって命を与えられた者を指しています。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(Ⅱコリント8:9)。
Ⅱ.死に至るまでの忠実 (10)
 ポリュカルポスは教会史において殉教者としてよく知られた人です。彼がスミルナ教会の監督として他の教会に書き送った「ポリュカルポスの手紙」という文書があります。彼は皇帝礼拝に反対したかどで火刑に処せられました。彼は処刑を前にして「私は84年間キリストに仕えましたが、ただの一度も、キリストが私を悪く取り扱われたことはありません。どうして、私が、自分を救ってくださった王を冒涜することができましょう」と明快に述べたのです。「死に至るまでの忠実」というのは、単なる言葉遊びではなく、実際に殉教した人々がその当時には幾人も存在していたのです。日本教会史においても多くの忠実な人々の血が流され、命が失われて行ったことを忘れてはなりません。
Ⅲ.勝利を得る者に対する報償 (11)
 最初に発信人に関する話をしましたが、結びの言葉についても触れておきましょう。七つの教会に宛てた手紙の結びには「勝利を得る者」に対する約束の言葉が、それぞれ異なった内容で述べられています。ここでは「第二の死によって滅ぼされることはない」という約束が与えられています。第二の死とは霊的な死、永遠の滅亡を表しています。「滅ぼされることはない」とは、まさに永遠の命が約束されていることを意味しているのです。主は「死んだことはあるが生き返った」お方です。このお方と結ばれる時に私たちに真の命が与えられたのです。信仰者の真の富は「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること」(ピリピ1:20)なのです。