聖  書  ヨシュア記1章1節~9節

1 主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、
2 「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。
3 あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。
4 あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。
5 あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。
6 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。
7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。
9 わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

 3月30日(月)にいのちのことば社創立60周年事業として宣教フェティバルが行われます。主題は「原点からの出発」です。出発と書いて「たびだち」と読ませています。先日アカデミー賞で日本映画「おくりびと」が外国語映画賞を受賞しました。タイトルの英語名は「デパーチャー」(旅立ち)です。亡くなった人の体を清め、棺に納める納棺師の仕事に就いた男性が、人と死に向き合う様を描いたものです。
1978年頃に、谷村新司さん作詞作曲による「いい日旅立ち」という歌が山口百恵さんの歌で大ヒットしました。「日本の歌100選」にも選ばれている名曲です。「ああ、日本のどこかに私を待っている人が居る。いい日旅立ち夕焼けを探しに母の背中で聞いた歌を道連れに」。人生には様々な旅立ちがあります。そこには必ず出発点があり、終着点があります。お互いの人生にとっての旅立ちについて考えてみましょう。聖書にもいろいろな出発点が記されています。
 まず創世記12章にはアブラハムの出発、旅立ちが記されています。これは異教の地からの出発でした。「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)のです。この場合のきっかけは父テラの死でした。
 出エジプト記12章には有名な過越祭の原型があります。彼らはモーセに引率されて紅海をわたり約束の地カナンへと向かいますが、そこで40年の歳月を荒野において過ごします。本日のテキストはその40年後の出来事です。ヨシュア記1章にはヨシュアを大将とするイスラエル民族の旅立ちが記されています。この場合のきっかけは偉大な指導者モーセの死でした。
四福音書にはキリストによる救いの原点とキリストの出発点が記されています。それはキリストの十字架と復活、それに五旬節の日に実現にした聖霊の降臨です。これは単にキリスト教やキリスト教会の話に留まらず、キリスト信者である私たち一人一人に問われなくてはならない事柄です。
 私は17歳の時にキリストの福音に出会いました。そこで明確な新生の経験をさせていただきました。もしあのときの経験がなかったとすれば今日の私はなかったといっても決して過言ではありません。何か問題が生じたときには、いつでも私はあのときの悔い改めと信仰に立ち帰るのです。あの時が私の原点であり、あの時から私の旅立ちが始まったのです。
 今年はわが国のプロテスタント宣教150周年という記念すべき年です。ここにプロテスタント信仰の原点があり出発点があるのです。1859年5月には米国監督教会からリギンズ、ウイリアムズが中国から長崎に、10月には米国長老教会からJ・ヘボンが、11月には米国オランダ改革派教会からブラウン、シモンズが横浜に、フルベキが長崎に来ています。私たちの教会は1958年(昭和33年)から始まりました。ここに私たちの教会の原点があり出発点があります。
どうか、この年ほど祈った年はない、主を証した年はない、福音を伝えた年はない、というような、画期的な証しの年にしていただきたいと心から願っています。