聖 書:申命記32章9節~14節

9:主の分はその民であって、/ヤコブはその定められた嗣業である。
10: 主はこれを荒野の地で見いだし、/獣のほえる荒れ地で会い、/これを巡り囲んでいたわり、/目のひとみのように守られた。
11: わしがその巣のひなを呼び起し、/その子の上に舞いかけり、/その羽をひろげて彼らをのせ、/そのつばさの上にこれを負うように、
12: 主はただひとりで彼を導かれて、/ほかの神々はあずからなかった。
13: 主は彼に地の高き所を乗り通らせ、/田畑の産物を食わせ、/岩の中から蜜を吸わせ、/堅い岩から油を吸わせ、
14: 牛の凝乳、羊の乳、/小羊と雄羊の脂肪、/バシャンの牛と雄やぎ、/小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。

Ⅰ.目のひとみとは
 目が大切な器官の1つであることは周知のところでありましょう。私も、十代からひどい近視と乱視に悩まされて来た上、最近では老眼も加わって、目では人一倍苦労している者だと自認している者です。しかし、「目の瞳」とは目のどこを指すのか、となると正確に説明できないので辞書を引いてみました。
 広辞苑で「ひとみ」を引くと「瞳」(どう)と「眸」(ぼう)の2つの漢字があてられ、「くろめ、瞳孔のこと」と、次のように説明がなされています。「目の虹彩に囲まれた中央の黒く見える部分。網膜へ入る光の量を調節する・・ひとみ」と・・。
Ⅱ.瞳はどのように守られているのでしょうか。
 目の周りの眉毛、睫毛、まぶた、涙腺らが互いに不満を言い合って自分の持ち場を放棄したり、配置換えしたりしたとしたらどうなるでしょう。眉毛、睫毛が、汗やほこりや異物の進入から瞳を守るためのガードマンとして神がその場所に創造し、配置されたのです。まぶたにしても同じく危険を察知する神経が上、下瞼、目の周りに張り巡らされ、危険が迫ると反射的に瞼が閉じられます。強烈な光も目に危険となることが多く、それからも瞼が守ってくれます。もしタイミング悪く目に何かが入ってしまった場合は、涙腺から涙が出て痛み、辛さを表現するとともに洗い流そうとしてくれるのです。
Ⅲ.なぜ、目はそのように守られるのでしよう。
①目は見る器官だから(Ⅰヨハネ1:1~2)
②目は心身の健康のバロメーターだから(マタイ6:22~23、箴言4:20~23)
③油断すると、目は罪の入り口となるから(創世記3:6~7、マタイ5:27~29)
④目は、感情を表す器官だから(ルカ22:61)
⑤目は休息を必要としているから(イザヤ40:28~31、詩篇127:2)
Ⅳ.目の異常
 目の異常には近視、遠視、乱視、老眼、白内障などがあります。
聖書にも、「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。」(第1コリント13:12)と記されています。
 乱視や左右の視力に差があったり、老眼になると、針穴に糸を通すのに苦労します。ハサミで細いものを切るのも難しいし、的外れなことをしがちです。「的外れ」は罪と言う語に通じます。
 また、「やぶにらみ」は一つの目は天(神)を見、もう一方の目は地(この世)を見ている状態であり、マタイ6:24で言われている「だれもふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」という真理を教えてくれます。
その他、病原菌に冒されたことによる眼病には・・「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」(エペソ6:11)とあります。
 目の異常を調べる時、眼科医が様々な角度から光を当てるように、み言葉の光の中で霊的な目での診断をはかりたいものです。
Ⅴ.瞳を守るように、私たちをも、守られる主
 私自身も、信仰生活50年の間には、何度も何度も、瞳を守るが如く主に守られた経験と体験をしていますが、今日はその中から「私の目の瞳」が実際主に守られたお証をさせていただいて話の結びとしたいと思います。
 それは2000年11月30日木曜日、週報発送のために荷物を郵便局に持って行く時のことでした。荷台にダンボールを乗せ、自転車紐でしっかり締めて最後のところを引っ掛けようとした時、金具が引っ掛からず、跳ね返って、その先がビシッと音たてて私の右目を直撃したのです。火花の散るような衝撃と痛みが走り、コンタクトをはめていた私は「これは大変なことになった」と思いました。見えるかな?と左目を隠して見てみると、腫れぼったく灼熱感はあるものの、いつもどおりぼんやり見えています。それで失明は免れたのだとわかり、「主よ感謝します」と言っていました。
 その後、やはり目の中に異物感を感じ、なにかおかしいのです。手鏡を取り出し、あの手この手で見てみると、半分のコンタクトを目の中に発見しました。でも、取ろうとしても取れません。翌土曜日、かかり付けの眼科に行って診てもらい「よくこんな状態で三日間も我慢したね。これはたいへんなことですよ。取り出せるかどうかやってみますが、目の中というデリケートな場所。無理もできませんから、大きな病院へ行ってもらわなければならないかもしれない。しかし今日は悪いことに土曜日だし・・・」と困った様子。しかし、色々苦労して取り出してくれたのです。
 その後9年経過しましたが何事も無かったように過ごしています。今私は、あの時もしコンタクトが入っていなかったら瞳の真ん中に直接金具が勢いよく当たって失明に到っていたのではないかと思っています。また、割れたコンタクトは、傷つけないように不思議な位きれいに真っ二つに割れていたので助かったのです。あれがとげとげしく複雑な割れ方をしていたらと思うとぞっとして、主の守りに感謝せずにはいられません。