聖  書  ヨハネ9:1~12,35~41

1:イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
2:弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
3:イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
4:わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
5:わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
6:イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
7:「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
8:近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。
9:ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。
10:そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。
11:彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。
12:人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。
35:イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。
36:彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
37:イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
38:すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
39:そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40:そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41:イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

金 言  
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 (ヨハネ9:3)
 
 生まれつき目の見えない人が、見えるようになった奇跡物語です。確かに肉眼の目が見えるようになったのですが、「心の目」が開かれ、神を信じる者となりました。
「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(41)と、主イエスは宗教的権威をふりかざしているパリサイ人が、神を知っていないと、するどく指摘しています。「盲人」とは肉眼の目ことではなく、「心の目」です。「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(黙示録3:17)。
1.不幸の原因は、本人の罪か、両親の罪か (2)
生まれつきの盲人は「こじき」(8)で、身体的、社会的に「気の毒」な状況です。不幸の原因は「因果応報」と、人から見られ、自分もあきらめています。生きている限りは「不幸な過去」から解放されないのでしょうか。神がいるなら、どうしてこんな不幸な出生なのだろうと神を呪うしかないのでしょうか。主イエスの弟子さえも、この不幸は因果応報が原因と質問しています。人も、そして「あなたの心」も、「そうだ」と認める以外に解答がないのです。
なんと言う悲劇、絶望。「あきらめの世界」から出られないのです。
2. 「ただ、神のみわざが、彼の上に現れるため」 (3)
(1)「ただ、神のみわざが…」 他人も自分は、もう何もできない。だから、神の出番です。ただ、神のみわざしかないのです。絶望のどん底で「神のみわざ」が起こるのです。
(2)「わたしは、この世にいる間は、世の光である」 (5) それぞれの人生は有限です。主イエスの公生涯は3年半でした。この時代、多くの群衆は主イエスの言葉を聞き、奇跡を見たのです。信仰は、いつも、主イエスの方からの個人的な出会いから始まっています。その機会を逃すことは、人生最大の悲劇です。
(3)「そのどろを盲人の目にぬって」(7) 人も自分も、触れたくない、触れられないことがあります。人生の汚点、良心の呵責、弱さ、罪、汚れ。そのところに、主イエスは触れられたのです。ほんとうの神だけが、触れることができるのです(詩篇139)。
(4)「シロアム(つかわされた者 の意)の池に行って洗いなさい」 (7) 「つかわされた者」とは、神からつかわされたキリストの預言です(創世記49:10)。こじきであった盲人が目が開かれた後、プロの宗教者と、正々堂々と渡り合っています。「救い主が来られるんだとさ」という淡い期待だけで終わらなかったからです。人はみんな、漠然と、「無難なてごろな宗教」に触れて、いつかは幸せになり「天国へ行きたい」と思っているのです。
この男がどんなに否定され「外に追い出された」(35)としても、「ただ、一つだけ知っています。わたしは盲人であったが今は見えるということです」と、自分の身に起こった事実を言い続けます。預言されていたキリストが「自分」に声をかけ、触れてくださったのです!
3.「主よ、信じます」(38)
この盲人の場合は、肉眼の目はすぐに開かれましたが、「心の目」は徐々に開かれてきました。
(1)「ただ、神のみわざが、彼の上に現れる」  主イエスの言葉を聞いたこと。
(2)「そこで彼は行って洗った」  単純に言葉とおりにしたこと。決してむずかしいことではありません。泥のついた顔で人前を歩くのは恥ずかしかったでしょうか。 この絶望から救われることに比べるならば、もう、そんなことはどうでもよいことです。
(3)困難、迫害もありました。 しかし、自分の身に起こった神のみわざは、否定できないのです。
(4)「主よ、信じます」 主ご自身に告白しました。そして 「イエスを拝した」(38)。神を礼拝する者となりました。わたしたちの週ごとの主日礼拝です。