聖  書 使徒行伝5:12~21

12:そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。
13:ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。
14:しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。
15:ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。
16:またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。
17:そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、
18:使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。
19:ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、
20:「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。
21:彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。一方では、大祭司とその仲間の者とが、集まってきて、議会とイスラエル人の長老一同とを召集し、使徒たちを引き出してこさせるために、人を獄につかわした。

金 言
 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。
       (使徒行伝5:20)
 使徒行伝では「教会」を学ぶことができます。生きている教会は、「大過なく静穏無事」なことが続くのではなく、神による「多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われ」ていました(12)。
 神を信じない人々にも、その神の御業と、使徒たちの説教を認めていたのです。「その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた」人々と(13)、「主を信じて仲間に加わる者」(13)と分かれました。それはアナニヤ・サッピラの偽献金で、神の裁きを受けたことが、教会の外にも知れ渡っていたからです。聖なる神を求め、聖なる者となるように求めるかどうかによるのです。ペテロを通して、「癒し奇跡」が次々と起こっていました(15-16)。とにかく、教会の内外に目に見える大きな神のできごとが次々と起こっていました。
 神の働きが前進する時、必ずと言っていいほど、迫害と反対があります。悪魔は、神の働きが進むことをあらゆる手段を通じて妨害するのです。再度、ユダヤ当局者によって逮捕され、拘留されてしまいました(17)。今度は「使徒全員」です。事態は前回の逮捕より深刻になっています。
わたしたちは何回も同じ困難や迫害が起こると、イヤになり、前進することを止め、信仰すら捨ててしまった方がよいと考えてしまうかもしれません。しかし、神の奇跡は起こったのです。「ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出し」たのです。
1.「この命の言葉を」
 神の奇跡は、人の都合ではなく、神の言葉が伝えられて、信じる者が起こる奇跡です。主の使いによる信じられないような鮮やかな奇跡です。しかし、その結末は、また再度の迫害と、信徒たちはむち打ちを受けるのです(40-41)。人間的には何の益もないどころか、恥と痛みしか残りません。しかし、使徒たちは、なんと喜んでいるのです。それは主イエスを信じ、従い、困難な中にも、神の言葉が伝えられた喜びです。平穏無事、自分思惑通りだとしても、神の御業は何も起こらず、神の言葉が広がらないとすれば、これほど寂しく悲しい結末はありません。
(1)言葉を告げる主イエスは生きておられるので、「命の言葉」です。
 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ11:25,26)
「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです(ヨハネ6:68)。
(2)わたしたちの救いの確信は、「命の言葉」にあるからです。
 「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」(Ⅰペテロ1:23)。
 「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブ1:21)。
(3)この世で生きるために不可欠なのは「命の言葉」です。
「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ピリピ2:15)。
 神の言葉は「言葉そのもの」に命と力があるので、人間の困難や迫害野でも、命を失うことは絶対にないのです。「命の言葉」を心に入れ、そのとおりに信じる時に、驚くべき神の御業がなされるのです。
2.「さあ、行きなさい…立ち…語りなさい」
 わたしたちは不安や恐れによって潰されてしまう時、主の励ましの言葉を聞くのです。神からの勇気をもって行きます。そして困難な所に立ち続けることができます。そして、「命の言葉」を語ることができるのです。「この命の言葉」は「言葉そのもの」に命と力があるのです。