聖 書:Ⅰテサロニケ5:12~22

(12) 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、(13) 彼らのきを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。(14) 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。(15) だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。16) いつも喜んでいなさい。(17) 絶えず祈りなさい。(18) すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(19) 御霊を消してはいけない。(20) 預言を軽んじてはならない。(21) すべてのものを識別して、良いものを守り、(22) あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

 キリスト者生活の理想の姿は、《いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する》生活である。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と明言もされている(17節後半、新改訳)。この理想を現実とするのが最大の課題である。それは優れて聖化の問題と深く関わることである。
 どうしたら《いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する》生活ができるか。自分の努力、それも信仰による努力で可能か。そう思って頑張ってもなかなかできない。すると、これは努力目標のようなものなのか。そんなことはない。私たちにできないことを、神が私たちに望まれるはずはないのだから。
 理解と解決の鍵は、「キリスト・イエスにあって」の一句にある。キリスト者とは、キリストと結び合わされ、キリストにとどまり、キリストを我が身に着ている者であり、また、キリストが我がうちにとどまることによりキリストを内住させている者である。キリストは新しい契約の仲介者として、まさに福音を具現しておられる。それでキリスト者は、福音にあずかり、その〔罪の赦しと永遠のいのちと神の子となる特権を与えられるという〕恵みに生きる者に他ならない。
 この恵みの現実を体験的に知れば知るほど、喜びと感謝があふれてくる。日々新たに福音を聴き、その恵みに生きる生活が持続するなら、《いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する》生活が自然にできるようになる。それは自分の努力ではなく、ただ福音を聴受する信仰の恵みによるのである。
 祈りは懺悔や嘆願だけではない。望ましいのは感謝と讃美が祈りのすべてとなることである。旧約の詩篇は、懺悔や嘆願も多くあるが、そのクライマックスはハレルヤ詩篇(146-150篇)である。恵みの請求書の祈りではなく、恵みの領収書の祈りこそ、絶えず祈ることのできる祈りである。
 「御霊を消してはなりません」(19節、新改訳)と勧められているのは、キリスト内住の確信や福音を聴受する信仰を与えられ、《いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する》生活ができるのも、すべて聖霊の導きと助けによる