聖 書 Ⅱペテロ3:3-18

3:まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
4:「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
5:すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
6:その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
7:しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
8:愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
9:ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
10:しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
11:このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
12:極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
13:しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
14:愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
15:また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
16:彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
17:愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。
18:そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。

金 言
 「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」。(Ⅱペテロ3:13)
  主イエス・キリストがわたしたちの罪のために十字架で死なれました。神はキリストを死人の中からよみがえらせました。主の弟子たちは、キリストの栄光の姿を見て、驚き、喜びに満たされました。宣教の中心は「生けるキリスト」でした。「わたしは死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けている」(使徒23:6)と宣言しています。「復活」が、キリスト教への信頼の保証です。もし、復活を否定するならば、「わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(Ⅰコリント15:19)。「しかし、事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(Ⅰコリント15:20)。新約聖書は「復活」を素通りすることを許さないのです。わたしたちの前に「生けるキリスト」が立っているのです。
 
 復活され昇天された主イエス・キリストが、天から、信じるわたしたちを迎えに来られるという再臨は、初代教会の「日常の信仰」でした。「マナラ・タ(主イエスよ、きたりませ)」(Ⅰコリント16:22)。「御国をきたらせたまえ」(主の祈り)。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(Ⅰヨハネ3:2)。
主イエス・キリストは、一日も早く再会したい愛するお方です。再臨は、死で終わる自分の体が、復活し、栄光の体に変えられる贖いの完成の時であり、神の審判がなされ、新天新地が成就する時です。 「再臨待望」の信仰が希薄であるとすれば、新約聖書のメッセージの拒否になります。「所詮、自分の信仰はこの程度」と居直ることなく、真剣に吟味すべきです(Ⅱコリント13:5-6)。
 Ⅱペテロの背景は、(1)ペテロのローマでの殉教です。「わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである」(Ⅱペテロ1:14)。(2)主イエスの再臨は「巧みな作り話」(1:16)ではなく、その根拠として、主イエスの変貌山で栄光の姿を見たこと、天からの声を聞いたとペテロは証言します(1:17-18)。(3)再臨の預言を勝手に解釈ことを警告しています。(4)再臨を否定、または修正する「にせ預言者」「にせ教師」(2:1)が教会に入ってきました。彼らは、必ず、倫理道徳が頽廃して世俗主義になり、それが「信仰生活」と、うそぶきます。「主の来臨の約束はどうなったのか。…変わってはいない」(3:4)と言います。確かに「目に見える世」は、変わってはいません。しかし、彼らの生活は、「今」の欲望、快楽に溺れるだけです(マタイ24:28)。「再臨待望」は、きよい生活の動機、原動力です。
 神の言葉が、ノアの洪水を記録し、そして世の終わり、この世界が火で焼かれることを預言しているのです(3:7,3:10-12)。最終的には神の啓示でしかわかりません。世の終わりの時は人にはわかりませんが、自分自身の最期も「くずれ落ちていくもの」(11)です。意識するしないにかかわらずに、「くちて、死んで、滅んでいく」ことから誰一人逃れられません。ただ、神の言葉を信じ、死人から復活し再臨のキリストだけが、希望なのです。これは、教理ではなく、わたしたちの現実です。
 キリストの再臨は、驚きと喜びのメッセージです。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(3:9)。救いの戸が開いている時を逃してはなりません。
わたしたちの最終地は「義の住む新しい天と新しい地」(13)です。人間の罪によって汚染されたこの世界ではなく、神によって新創造された世界が用意されているのです。
ペテロは「愛する者たちよ」(3:1,8,14,17)と呼びかけ、「純真な心を振るいたたせるよう」に(1)「忘れてはならない」ように、(8)「励む」ように、「自分の確信を失うことのないように」と、諭しています。
  「再臨待望」の信仰から、真実な、きよい、平安な信仰生活が生まれてくるのです(12,14)。「再臨待望」は、わたしたちの「日常の信仰」です。