聖書:使徒行伝2:1~17

1:五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
3:また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
4:すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
5:さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
6:この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
7:そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
8:それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
9:わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10:フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
11:ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
12:みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
13:しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
14:そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。
15:今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
16:そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、
17:『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。

金 言
「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう…」。(使徒行伝2:17)
 本日はペンテコステ(聖霊降臨)の日です。主イエスは、昇天する前に、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言われました。
1.聖霊の注ぎは、キリストの証人のなるために
 証人は、見物人や傍観者、評論家とは違い、体験者です。体験者は、伝える義務と責任があります。その体験談は聞いた人の人生を変えていく力があるのです。伝える内容は、「主イエス・キリスト」です。キリストがわたしたちの罪のために死なれたこと。罪人が十字架でキリストを殺してしまったこと。しかし、神はキリストを死人の中からよみがえらせたこと。キリストは死んで終わりではなく、事実、死人の中からよみがえり、栄光の体で弟子たちに現れたことです。そして、弟子たちの見ている前で、昇天し、神の右の座につかれたことです(2:22-24,2:31-33)。
 キリストは、目には見えませんが、信じるわたしたちにとって、生ける主、神であるのです。弟子たちは、キリストの出来事を見てきました。それで充分と思い、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」(1:6)と問いました。主イエスは、その時、「さあ、出て行きなさい」とは言われず、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時…」(7)と言われたのです。それは、過去の思い出のキリストだけであれば、心変わりし、いずれ感動が薄れ、忘れてしまうからです。「キリストが生きておられる」ということは、聖霊が教えてくださるのです。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:13-14)。
2.聖霊の注ぎは、信じるすべての人に
  ペテロは聖霊に満たされ、聖霊降臨は預言者ヨエルの預言の成就であると大胆に証しました。聖霊は、特別な人にだけではなく、すべての人に注がれると神は約束され、そして、ペンテコステの日に約束を成就してくださいました。
 主イエスを信じる者で、聖霊に満たされないままで信仰生活を送ることのできる人はいないのです。聖霊は、きよい霊ですから、聖霊が働いている証拠は、罪が示され、罪の悔い改めが起こることです。「人々はこれを聞いて、強く心を刺され」(37)ました。ペテロは「曲がった時代から救われよ」(40)と訴えました。キリスト者は、絶えず、悪魔の働きと罪の誘惑にさらされます。聖霊に導かれ、聖霊にゆだねて、生けるキリストに従っていくことが、きよい生活をする秘訣です。そうでないと、簡単に形式的なおざなりの礼拝と信仰生活になってしまいます。キリスト者は、聖霊の力をいただくことができます。それはキリストの証人であるとの確信です。キリストの臨在を信じ、経験することです。人生を、キリストを中心に生きる力が与えられます。それが伝道の原動力です。それは、感覚的なことや御利益的なことがあったからではなく、どんな状況にあっても、キリストが生きておられることを信じる力です。キリストを知らない人の絶望と苦悩を知り、なんとかキリストを知ってほしいと熱望する心です。それが神の御心であり、キリストの願いだからです。 今も、聖霊が注がれています。
 わたしたちは、心を開き、悔い改め、聖霊に満たしていただきましょう。