聖 書 創世記3:9
9:主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
「あなたはどこにいるのか」と、神は問い続けています。人は、鏡によって自分の姿を見るように、この神の問いかけを聞く時、神を見いだし、自分を見いだすことができるのです。
1,神に創造され祝福された人
人は、神に創造され、神と交わり、生きる目的を与えられた存在でした(創世記1:26-2:4)。
人は、神の言葉を聞き、信頼し、従う者でした(創世記2:15-17)。神は、人に自由を与えられました。それと同時に、神は「してはいけない禁止事項」を設けられたのです。真の自由は、放縦ではなく、秩序の中にあるのです。人は、神に対して「越えてはならない一線」があるのです。そこに、神の権威があるのです。もし、越えてしまうと、人は神を恐れない存在(悪魔)になってしまいます。
2,「迷子」になった人
人は、しあわせを求めても得られず、心には不安と恐れが生じ、生きる意味を失い、ただ死を待つ存在です(創世記3:16-19)。人は自分の人生を理解し、改善しようと努力しますが、その努力は虚しい結果になってしまっています。人間どうしの争いと憎しみは、何も解決できません。その原因は、たった一つで、人が神を失ったからです。
創世記の人の堕落の場面を読むと、人は神を完全に否定し、無神論者になってしまったのではありません。「あなたはけっして死ぬことはない」(3:4)とは、「神の審判はない」という宣言です。もし、神の審判がないとすれば、この世の秩序や善悪の評価は、だれがするのでしょうか。だから、「あなたの目が開け、神のように善悪を知る者」(5)という立場になるのです。ここに、神と同等か越える人の立場が出てきます。「神が示されたこと以上のことを知っている」という自分の賢さ(知恵)があります。そうであるならば、人は神に聞き従う必要はないと思うのです。「目が開かれて」とは、人生の新しい展望です。しかし、自分の創造者であり、命の保持者である神に頼らない人生設計、人生打開策は、何の効力があるのでしょうか。その結果は、裸の自分(3:7)、神を避け恐れる心(3:8)、だまされ信頼するものがない孤独(3:13)があるだけです。
「迷子」は親のところ戻らない限り真のしあわせを感じることはないように、神のもとに帰るしかないのです。
3,「あなたはどこにいるのか」
人は自分の力、悟り、善行では神のもとに帰ることはできません。人を誘惑したへびのように、神を高見から論じても、かえって迷路に入り込み、神を見失わせ、だまされるだけです。
人のすることは、「あなたはどこにいるのか」という神の声を聞くことです。神は、罪を犯した人をそのまま見捨てないのです。
神は神の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わし、罪の身代わりとして十字架について、神のさばきを受けてくださり、死人の中からよみがえらされました。 「あなたはどこにいのるか」という神の
問いは、主イエス・キリストの救いとなったのです。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)。神の問いかけに応答する時を失ってはなりません(Ⅱコリント6:1-2)。