聖  書  ヨハネ11:25~26

25:イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
26:また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

金 言
 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25-26)
 人にとっての最大の苦悩は死です。人は、罪を犯し、命の創造者、保持者である神から離れたことによって、死ぬ存在となったのです(ローマ5:12)。
 主イエスの愛するラザロが病気で死にました。姉たちや周囲の者は深い悲しみと嘆きの中にいます。主イエスは「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」と言われました(4)。主イエスは、人の死に、何をなさろうとしているのでしょうか。
 ユダヤ人は、「終わりの日のよみがえり」(23)の希望があり、マルタも信じていました。しかし、主イエスでも死には何もできないと、失望していたのです(21,32,37)。
 主イエスは、罪と死からの解放者です。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル2:14-15 )。
Ⅰ,「わたしはよみがえりであり、命である」
 主イエスご自身が、十字架の死後、よみがえられたのです。「このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」(使徒2:23-24)。キリスト教は、「復活されたキリスト」を信じる宗教です。復活にこそ、死からの解放、死への勝利があるのです。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。「すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう」(ヨハネ5:21)。主イエスを信じることは、主イエスに永遠の命があり、その命が与えられることを信じることです。
Ⅱ,「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」
  「わたしはよみがえりであり、命である」と言われた主イエスを信じることによって、永遠に生きることができるのです。聖書は、キリスト者の死は、「眠っている」と言います。死は、通過するけれども、死んで亡くなってしまうのではないのです。わたしたちを愛し、十字架で命を捨て、死からよみがえられた主イエス・キリストが、この世でも、死を通過する時も、死後も、永遠に共におられるのです。そして、死んで終わりではなく、主イエス・キリストが再臨される時、栄光の体に復活し、キリストと、キリストにある人々と再会し、永遠の御国に入れられるのです。
Ⅲ,「あなたはこれを信じるか」
 主イエスは、愛する者の死に打ちのめされ、悲しみと嘆きの中にある人を深く同情されただけではありません。人は死に対しては何もできません。だから絶望しかないのです。しかし、主イエスは、墓の石を取りのけ、死臭を放つラザロに「ラザロを出てきなさい」と命じたのです。死んだラザロは墓から出てきました(44)。
 主イエス・キリストのラザロをよみがえらせた奇跡は、主イエスの再臨の時のわたしたちのよみがえりの保証です。地上にあっては、どんな困難の中にあっても、神を信頼できることの保証です。 「わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(Ⅱコリント1:8-9)。
 キリストなしの死は、恐れと絶望です。キリストにある死は、よみがえりと、永遠の命の希望につながっているのです。