聖 書:ピリピ3:17~21

(17) 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。(18) わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。(19) 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。(20) しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(21) 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

 ある種の動物には帰巣本能ないしは帰巣性というものがあります。それは動物が自分の住みかや、巣、あるいは生まれた場所へ帰ってくる性質や能力を意味しています。ミツバチ、アリ、伝書鳩、つばめ、鮭などがよく知られています。聖書は「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)と教えています。多くの人々は「赤とんぼ、夕焼け小焼け」などの唱歌に郷愁を覚えるものです。それは私たちの帰巣性なのかも知れません。私たちの本当の生まれた場所、また帰って行くところ、真の心の故郷は何処なのでしょうか。聖書は「わたしたちの国籍は天にある」と教えています。
Ⅰ.天にある国籍 (20a)
 現在地球上には約200の国(国連加盟国は192)と3千とも言われる少数民族が住んでいます。当然そこには言語、文化、習慣、経済、教育、医療、福祉、宗教などの違いがあります。双方の利害関係が衝突しますと醜い争いが生じてきます。長い人間の歴史はこうしたことの繰り返しであったと言っても決して過言ではありません。わが国も過去において大きな過ちを犯してきました。今も世界の至る所で痛ましい戦争が行われています。時代はますます悪い方へ悪い方へと向かって行くのではないでしょうか。
聖書が「わたしたちの国籍は天にある」言う場合、それは人間社会における権力争いや損得勘定から解放された、神が支配される〈天国、神の国〉を意味しているのです。そこには「涙も、死も、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21:3-4参照)のです。

Ⅱ.天にある国籍を待ち望む (17-20)

  主イエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20-21)と言われました。つまり「天にある国籍」とは私たちが現実に体験することができるものなのです。パウロは「わたしにならう者となってほしい。・・・そう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。・・・彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」(17-19)と述べています。私たちはこの地上の生活において、キリストに従い、キリストの心を心として歩むとき、そこが私たちの国籍のある所となるのです。それは天の御国から比べるならばまだまだ未完成なものですが、私たちはそのことを待ち望んで行かなくてはなりません。
Ⅲ.栄光のからだと変えられる (21)
  天にある国籍を持つ者には素晴らしい特権が用意されています。この地上では私たちの心には平安が与えられますが、肉体には種々な痛みや苦しみが伴います。しかし天国に移された人々は、あらゆる苦難から解放されるのです。卑しいからだを、栄光のからだと変えて下さるのです。マザー・テレサは「もし、天国で松葉杖や車椅子が必要ならば世界中から集めて天国に送る」と言いました。天国では最早そうしたものは必要がないのです。
私たちはこの地上にある者ですが、本当の国籍は天国にあるのです。先に天に移された方々を偲びつつ、共に御国を目指して歩もうではありませんか。