聖 書 ヨハネ1:1~5,9~18

1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2:この言は初めに神と共にあった。
3:すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4:この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5:光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
9:すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10:彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11:彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12:しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13:それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14:そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15:ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16:わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17:律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18:神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

金 言 
 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。 (ヨハネ1:9)
 本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書のクリスマス物語です。初代教会の「キリスト賛歌」と言われて、クリスマスの喜びを歌ったものです。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(14)。この言葉は、大切な真理であり、信仰告白であるキリストの「受肉降誕」(神が人となった)を、わたしたちに伝えています。
Ⅰ,イエス・キリストは神
  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」(1)。「言」はイエス・キリストのことです。イエス・キリストは、永遠の初めから存在し、神と共におられ、神です。
「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(2)。天地万物、生命、人間は、「言」であるイエス・キリストによって創造されました。イエス・キリストは創造主です。
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(4-5)。イエス・キリストは、神の「命」があり、「人の光」であった。超然と存在する神ではなく、人とのかかわりを持つ神です。やみとは、悪魔、罪、死、滅びのことです。しかし、光であるイエス・キリストは、やみに勝利するのです。
Ⅱ,イエス・キリストは人になった
  「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(9)。「そして言葉は肉体なり、わたしたちのうちに宿った」(14)。イエス・キリストは、神ですが、人を罪と死から救い、永遠の命を与えるために、人となり、この世に生まれてくださったのです。それがクリスマスです。だから、人は、イエス・キリストによって、神の言葉を聞き、神を見ることができたのです。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(18)。
Ⅲ,イエス・キリストを信じ受け入れる
  人となってこの世の来られたイエス・キリストの言葉と生涯を見る時、「まこと」(真理)が見えてきます(14)。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。イエス・キリストによって、人の真相が見えて、自分の罪がわかります。
 イエス・キリストの恵みは、十字架の贖いの死にあらわれています。「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ3:24)。
ユダヤ人は、この世に来てくださったイエス・キリストを拒否したのです。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(10)。 わたしたちは、イエス・キリストを信じ受け入れることができるのです。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(13)。民族、名誉、地位、能力、一切関係ありません。差別なく、誰でも救われることができるのです。クリスマスは、人の思索でも哲学でも作り話ではありません。事実、わたしたちを罪から救うために、神が人となられたのです。そのお方がイエス・キリストです。クリスマスは、イエス・キリストをわたしの救い主として、信じ受け入れる日です。