聖 書 Ⅱコリント5:13~19

13:もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
14:なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15:そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
16:それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
17:だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
18:しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
19:すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

金 言 
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。(Ⅱコリント5:17)
 2011年、新しい気持ちになって、新しい年をスタートしています。新しい自分になりたいですが、自分で自分を変えることはできません。しかし、キリストにあるならば、それは可能であることを示しています(17)。
  「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」(16)とは、パウロは、回心以前と回心後のキリストの「知り方」が変わったと言っています。「かつて」、人間的な基準で「上っ面」だけ知っただけでした。しかし、「生けるキリスト」に出会いました。そのキリストは十字架にかかり、死んで復活されたキリストです。そのキリストを、日々新しく新鮮な思いをもって信じるようになったのです。
 コリントの教会には、世俗の基準が入り、道徳的にも頽廃し、教会は混乱していました。パウロの使徒職の権威に対しても、不満や反発を持つ人がいました。だから、パウロは、「本物の使徒」(本物のキリスト者)とは何かを示さなければならなくなったのです。
Ⅰ,キリストの愛が迫っている人
  「気が狂っているなら」(13)と、現代では、誤解されるような表現です。それほどに、神への情熱があふれているのです。キリストに捕らわれてしまったのです(ピリピ3:12)。キリストの愛に心がうばわれてしまったのです。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:8)。キリスト者は、どんなに大きなことができたとしても、キリストの愛からでなければ、無意味です。「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)。
Ⅱ,古い自分に死んだ人
  「ひとりの人が死んだ」とは、キリストの十字架の死のことです。そして、その十字架の死の目的は、「すべての人のため」です。わたしのためにキリストが死んだと、受け止めるならば、次に、導き出される結果は、「すべての人が死んだ」(14)、つまり、「私自身が死んだ」という結論です。しかし、自殺するわけではありません。また我慢や禁欲主義になるのでもありません。それは、神を信じない古い自分に死ぬことです。死ぬとは、別れること、一線を越えることです。生き方が変わることです。「彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(15)。
Ⅲ,新しい自分となった人
 日々新しくなる秘訣は、「キリストにあるならば」(17)です。それは、キリストの内にいることです。キリストとの生命的なつながりがあることです。そうするならば、新しくなり続けることができるのです。それは、神の創造行為です。それは、「死人を生かし、無から有を呼び出される神」を信じることです(ローマ4:17)。 「古いものは過ぎ去った」。もう、過去に戻る必要はないのです。将来は、キリストの再臨の時、死人からよみがえらされ、新しい栄光の体が与えられ、新天新地に住むことができるのです。