聖 書  ヨハネ6:1-14

1:そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
2:すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3:イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
4:時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
5:イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6:これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
7:すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
8:弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
9:「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
10:イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
11:そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
12:人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
13:そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
14:人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

金 言 
「彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった」。                 (ヨハネ6:13)
 本日は「五千人の給食」といわれる四福音書に記されている主イエスの奇跡です。この奇跡の意味は、主イエスが「命のパン」(35,48)であり、主イエスを信じる者には永遠の命が与えられ、終わりの日によみがえることを示しています(39,40,44,54)。
Ⅰ,試されるキリスト
 「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(5)と、主イエスは、弟子のピリポを試しました。アブラハムも神の試みを受けました。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22:2)。主からの試みは、私たちが、信仰を確認する時、飛躍する時なのです。
 ピリポの答えは、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」(7)でした。これは、「足りない」という現状報告であるとともに、自分の無力さの嘆きの言 葉です。
 彼らは、すでに、主イエスの「カナの婚礼でのしるし」(ヨハネ2章)、「ベテスダの池での癒しの奇跡」(ヨハネ3章)を見たはずです。奇跡をされた同じ主イエスが目の前におられるのに、主イエスに何も期待していないのです。
Ⅱ,小さなささげ物であっても
 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」(9)。現実は、何もないのではありません。確かに、「ここに」何かがあるのです。神はわたしたちに必要なものを与えておられるのです。しかし、ほんのわずかなものに見えて、「それが何になりましょう」と、嘆いてしまうのです。
 「人々をすわらせなさい」(10)と言われたのは、わたしたちのざわざわとした取り乱している心を静めて、主イエスのなさることに心を集中させるためです(ヤコブ1:5-8)。信仰とは、主イエスへの期待です。
 「それが何になりましょう」というものが、主イエスの手に握られる時、神の御業がなされるのです。
 そして、ささげられたものを、主イエスが感謝しておられるのです。なんと幸いなことでしょう。わたしたちにとって、主が感謝して受け取るものとは何でしょうか。それは自分自身です。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。
Ⅲ,主イエスの祝福をいただく
 パンとさかなが五千人以上の人々に分け与えられて、「残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった」(13)と、ありあまるほどの祝福です。それは、量的なことだけではなく、主が確かに働いてくださったという証です。
 小さなものが、主にささげられ、主の手に握られる時、主の御業がなされるのです。主を信じ、主に期待しましょう。