聖 書  Ⅰペテロ2:22~25

22:キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
23:ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
24:さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
25:あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

金 言
 「あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」。(Ⅰペテロ2:25)
 「運が良かった、悪かった」という人生観は、結局は、運に翻弄されてしまう人生です。この世だけではなく死後も、運命や宿命から逃れることができません。最期に安住するところの保証がないのです。自分が一所懸命善行を積めば、安住するところが得られるのでしょうか。いいえ、だれも保証してくれません。だから、この世でも死後にも、平安がないのです。
 しかし、聖書の人生観は、「運」ではなく、神からの「召し」(21,3:8-12)です。わたしたちが、神から召されたのは、祝福を受け継ぐためです。この世の厳しい現実にふりまわされてしまう時、神に召され、たち帰ることができることは、なんという幸いなことでしょう。自分の善行や努力で神にたち帰ることはできません。神からの召しを確認する時、神にたち帰ることができるのです。
1,神からの召しとは、
 神からの召しとは、キリストの「御足の後を踏み従う」(21)ことです。
 福音書に書かれたキリストの生涯を凝縮した言葉(22,23)です。「罪を犯さず」「その口には偽りがない」「いっさいをゆだねておられた」とは、キリストが神の子であることを示しています。
主イエス・キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。この世ばかりではなく、死後も、永遠に信頼し従っていけるお方は、主イエス・キリストです。
 人の罪は、キリストをののしり、苦しめました。その時、キリストは「因果応報」で報いませんでした。罪をさばく権威を持つお方が、罪を赦してくださったのです(マタイ9:6)。
2,キリストの十字架の意味は、
罪から離れたい、罪を犯したくないと思ってもできない自分がいます。だから、主イエス・キリストは「十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」(24)のです。「罪を負う」苦しみは、主イエス・キリストの十字架に見ることができます。そこに、わたしたちは罪の残酷さ、恐ろしさを知るのです。しかし、主イエス・キリストが、十字架で、わたしたちの罪の罰を身代わりとして受けたくださったことによって、わたしたちの罪が赦されたのです(イザヤ53:4~6)。
3,神にたち帰ることとは、
 罪とは、「さ迷い続けること」、「心に平安がないこと」です。それは、「最期に安住するところがないこと」です。安住するところとは、神のいるところ、天国です。主イエス・キリストによって、罪が赦され、神のもとにたち帰ることができるのです。
 神は、たましいの牧者、監督者です(25)。この世の厳しい現実に、心の平安が脅かされます。その時、自分で自分を保つこともできなくなります。死も、自分ではどうすることもできません。しかし、どんな状況でも、神は、たましいの牧者、監督者なのです。
 今日、主イエス・キリストによって、神にたち帰りましょう。