聖 書: ヨハネ11章28~45節

(28) マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。(29) これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、イエスのもとに行った。(30) イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。(31) マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。(32) マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。(33) イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、(34) 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。(35) イエスは涙を流された。(36) するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。(37)しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。(38) イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。(39)イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。(40) イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。(41) 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。(42) あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。(43) こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。(44) すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 「生病老死」は人間の四大苦と呼ばれちますが、その中でも「死」は最大の苦しみであると言えます。自分の死は当然のことですが、愛する者との死別の苦しみは、経験した者でなければ到底理解することはできません。〈生ある者は必ず死す〉ということは、すべての人類に共通した厳粛な事実です。私たちはこうした死と言う苦しみから逃れることができるのでしょうか。「ラザロの復活」を通してキリスト者に与えられている復活の希望について考えて見ることにします。
Ⅰ.マリヤの嘆き (28~32)
 姉のマルタは行動的な人で、マリヤは内向的な人でした。マルタは途中までイエスを迎えに行きましたが、マリヤは家で待っていたのです。しかしマルタから「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」(28)と聞いたマリヤは「すぐ立ち上がって、イエスのもとに行った」(29)のでした。二人の性格は正反対でしたが、イエスに訴えた言葉は「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(21、32)と同じものでした。愛する兄弟ラザロの死に対する嘆きというものは、二人の性格の違いを超えて共通したものでした。それほど「死」は普遍的なものであると共に、肉親であるが故に大きな嘆きとなり、悲しみとなる個人的なものであることがよく分かります。
Ⅱ.イエスの感情 (33~41a)
 マリヤもユダヤ人も泣いていました。ここでの「泣いた」という言葉は、〈大声をあげて泣き叫ぶ、慟哭する、押さえきれない悲しみがいちどきに出る〉というような意味があります。こうした中でイエスもまた「激しく感動し、また心を騒がせ」(33)、「涙を流され」(35)、「また激しく感動」(38)されたのです。バークレーは「イエスは人々の傷ついた心とその悲しみにあまりに深くふれたために、その心は悲痛でしめつけられた」と注釈しています。またテニイは「それは悲しみよりもむしろ怒りの意味をもっていた。・・人間の大きな敵に対して憤られたのであった」と記しています。イエスは石でふさがれていた墓を前にして「石を取りのけなさい」(39)と命じました。マルタは「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」(39)と常識的に答えました。するとイエスは「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(40)と信仰の挑戦をされます。イエスの言葉に促されるようにして「人々は石を取りのけた」(41)のでした。すべての栄光はこの行為から始まったのです。
Ⅲ.ラザロのよみがえり (41b~45)
 「イエスは目を天に向けて」(41b)父なる神に祈られました。その祈りは①感謝の祈り、②信仰の祈り、③神に栄光のための祈りでした(42)。そして、「ラザロよ、出てきなさい」(43)と大声で呼ばわれたです。「すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた」(44)のです。そしてイエスは「彼をほどいてやって、帰らせなさい」(44)と言われました。この奇跡を見た人々は「イエスを信じた」(45)のでした。ラザロは栄光の体によみがえったのではなく、やがて彼もこの世を去るのです。そこにイエスの復活との本質的な違いがあります。この奇跡を通してイエスのメシア性が決定的となり、やがて十字架、復活という神の最大の奇跡、人類の救済へと進んでいくのです。
 イエスは無感情の神ではなく、私たちの日常生活の些細な傷みや悲しみに対して敏感に共感し慰め励まして下さる神、罪と死に勝利される復活の神なのです。