聖 書:ヨハネ13:1~11
(1)過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。(2) 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、(3) イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、(4) 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、(5) それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。(6) こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。(7) イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。(8) ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(9) シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。(10) イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。(11) イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
本日のテキストは「最後の晩餐」としてよく知られた箇所です。ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に隣接するドメニコ会修道院の食堂に巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から1497年にかけて描いたフレスコ画「最後の晩餐」は、芸術史に新しい時代を開いた重要な作品です。キリストが12人の弟子の中に自分を裏切るものがいることを告げた直後の場面が、劇的に描かれています。教会と修道院は世界遺産に登録されています。
共観福音書(マタイ26:17-30、マルコ14:12-26、ルカ22:7-30)にも記されていますが、ヨハネは「イエスの洗足」に焦点を合わせており、共観福音書とはかなり異なった内容になっています。ぜひ比較対照してみて下さい。
Ⅰ.極限愛の行使としてのイエスの洗足 (1~2)
イエスはこの時には「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して」(1)おられたのです。自分の死を直前にして、果たしてどれだけの人が、他人を配慮する余裕を持つことができるでしょうか。口語訳は「最後まで愛し通された」、新共同訳は「この上なく愛し抜かれた」、新改訳は「その愛を残るところなく示された」、文語訳は「極まで之を愛し給えり」と訳しています。それぞれの訳にはそれぞれの良さがありますが、私的には文語訳「極(きわみ)まで」が心に強く残っています。「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」という極限状態における愛の行使であり、途中で挫折することのない「最後まで、この上なく、残るところなく」愛し通された極限の愛でありました。テニイは「御自身のなしうる最大限度まで彼らを愛された」と言っています。
Ⅱ.極限愛の発露としてのイエスの洗足 (3~5)
イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって、腰に巻き、水をたらいに入れて、足を洗い、ふき始められた」(4-5)のです。まさしくイエスの独壇場です。このようなイエスの行為を通して私たちはイエスの極限愛の本質を知ることができます。それは強制されたものではなく、イエス自身からほとばしり出るもの(発露)に他ならないのです。それは奪うのではなく与えるもの、絞り出すのではなく溢れるもの、義務ではなく自然なもの、打算ではなく無私なもの等々です。このような極限愛はどこから出たものなのでしょうか。それは「イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い」(3)という言葉に見出すことができます。つまりイエスこそは救世主(メシヤ)であったことの確かな証です。
Ⅲ.極限愛の効力としてのイエスの洗足 (6~11)
ペテロは「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」、イエスは「あとでわかるようになるであろう」、ペテロは「わたしの足を洗わないで下さい」、イエスは「あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」、ペテロは「では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」、イエスは「からだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない」と答えられました。ここで言われている「からだを洗う」とは、〈主を信じて救われる〉ことを意味し、〈イエスの洗足〉は、日々の悔い改めによって、罪を赦しきよめて頂くことを意味しています。イエスの極限愛は私たちの罪を赦すのみならず、日々の罪を赦し、汚れをきよめる効力があるのです。
イエスは自分を裏切る者を知っておられ「みんながきれいなのではない」と言われました。お互い主のみ前に謙虚になってイエスの洗足に与る者となりましょう。