聖書 ヨハネ19:28~30

28:そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
29:そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。
30:すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

金 言 
 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。 (ヨハネ19:30)
 
 今日は棕櫚(しゅろ)の主日といわれる聖日です。主イエスが子ロバに乗ってエルサレム入られるのを人々は大喜びで、手に手にしゅろの葉を振って迎えます。彼らは主イエスがイスラエルをローマからの解放を先導する救い主だと思い違いをしたからです。自分たちの要求に応えようとはなさらない主イエスに対して、その週の金曜日には同じ人たちが、口々に「十字架につけろ!」と叫び出すのです。群衆はわずか4,5日の間で主イエスを英雄から罪人の座にまで引き摺り下ろしたのです。来週は喜びの復活祭「イースター」を迎えますが、今週は主イエスが十字架にかかられ、私たちの罪のために苦しまれ死なれたことに思いをはせて受難週を心静かに迎えたい。
1.十字架上の主イエス
 主イエスは朝9時に十字架につけられてその上で六時間ほど苦しみ抜かれました。十字架につけられてから七つの言葉を放たれたので「十字架の七言」と言われます。今日の箇所は28節に「今や万事が終わったことを知って」と前置きがあるので、正午から三時まで真昼の暗やみを過ごされた後の絶命までの今わの時です。五つめのことば「わたしは、かわく」は、十字架上で灼熱の太陽に裸同然のお姿でさらされて身体の渇きもさることながら、のどの渇きにも増して人の魂を救うための霊的な渇きは大きかったのです。人々は酸いぶどう酒を主イエスの口もとに差し出したとありますが、渇きを癒すための好意ではなく、ぶどう酒含んだ海綿を運ぶのに使ったヒソプには意識をはっきりさせる作用があることを考えると、できるだけ苦しみを続かせようとした悪意を感じます。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない。」(ヨハネ4:14)と言われ『永遠のいのちに至る水』を持つ主イエスは、私たちにその水を与えるために極みまでも渇きを体験されなければなりませんでした。
2. 救いの完成
 主イエスは六つめのことばで「すべてが終わった」と声高く叫ばれましたが、これは絶望の末や苦しまぎれに語られたことばではありません。このことばは「完了した」「成し遂げられた」と訳されることばで、やるべきことはきちっと果たし終わったという意味です。つまり主イエスは父なる神様が御子イエス・キリストに託された救いのみわざのすべてを完璧に完成した末に、「すべてが終わった」と勝利宣言を叫ばれ息を引き取られました。ですからキリストが十字架で成し遂げられた救いに人が努力して付け加えるべきものは何ひとつありません。私たち人間は「主よ、信じます。」と疑いを持たずに空手で神様からの救いのプレゼントを受け取るだけなのです。救いは「ただ」だからと言って価値がないでしょうか?そうではありません。罪を一度もおかしたことがないきよい神の御子が十字架という最も残酷な罰を受けて死ななければならないほどに高価で尊い代価は払われました。 
3.永遠の始まり
 完成された救いは、救いのゴールであると同時に永遠への始まりでもあります。旧約時代に繰り返しささげられた動物やものは不完全ないけにえで、人間の良心を完全にする(きよめる)ことはできませんでした。主イエスが十字架にかかられて流されたキリストの血は一度きりで永遠のあがないの効力がある完全な救いとなりました。「ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル9:12)