聖 書 ヨハネ8章1節~12節

1:イエスはオリブ山に行かれた。
2:朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
3:すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4:「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5:モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6:彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7:彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9:これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10:そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11:女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
12:イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

金 言 
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。(ヨハネ8:12)
1.罪の闇を歩む悲惨
女性は姦淫の罪の現場を押さえられたのです。ユダヤ人にとっては姦淫の罪は三大犯罪のひとつで律法によれば死刑に相当するものでした。どんなにか恥ずかしく恐ろしかったでしょう。他人事ではありません。私たちは人が見ていない、人の目が届かない暗闇で行う罪のみじめさを考えなければなりません。聖書は「彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。」(エペソ)5:12とあります。人が隠れてすることでも神の目の前にはすべてが昼間堂々としたようにあからさまです。「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。」(ローマ14:10)とあるからには、誰もが神の前に立つさばきの日には、闇に隠れて行った罪さえ白昼のもとに晒されて、すべてが神の義によってさばかれることは厳粛な事実です。
姦淫の現場を押さえてイエス・キリストを罠にかけるために、彼のもとに引っ立てて行った律法学者、パリサイ人にも罪の闇を歩む悲惨があります。人を批判して他人を罪に定める態度です。「しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(ヤコブ4:12)罪をさばき隣人を断罪して追い出し隔離しても決して世の中はよくなりません。罪人を、神を畏れる人に変えることしか方法はありません。彼らはこの女を人として扱わず使い捨ての物のように扱いました。イエス・キリストを罠にかけるためには手段を選ばない冷徹で卑劣な行動でした。彼には自分を正しいとする高慢な態度がありました。聖書は「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」と繰り返し言います。自分を顧みると彼らにある罪の悲惨な態度は私たちにもあります。
2.罪を憐れみ赦す権威
 まずイエス・キリストがみじめで哀れな女と会衆に対してとった行動は、沈黙です。次にどのような意図があったかはわかりませんが、地面に文字を書くことで注目を女からイエス様の手元に外させることで、人前に晒しものにされた女の羞恥心と恐れを和らげました。主は罪を犯した者に深く同情され主の憐みからそうされたのでしょう。
そして騒動をたった一言で収めました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。まさに賢い答えであり人の心にズシリと響く生きたおことばです。イエス・キリストは女を断罪しませんでした。それと同時にこの一言で律法学者、パリサイ人は強い罪の自覚を持ちました。人々はすべて立ち去りイエス・キリストと女だけが残りました。イエスは「わたしもあなたを罰しない。…今後はもう罪を犯さないように」と言われた。主は罪に対して妥協したり女を甘やかしたりしたのではありません。お言葉の背後に「私がやがて十字架の上ですべての人の身代わりとして死にます。ですからすべての人は自分の罪を認め、神のみ前に悔い改めて、ありのままに罪を告白すれば、神はすべての人のどんな罪も赦されるのです。」があります。
3.心にいのちの光をもつ
さらに「十字架で死んだ私は三日後によみがえりました。これを信じて私に従って歩むすべての人々を罪の暗闇から引き出して、心にいのちの光をもつ者としよう。」と主は罪人の私たちに約束されました。主は言われました。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」女は恐ろしい危機から罪深い自分を守り、寛大にゆるしてくださったイエス・キリストに対して、罪を認め心は悔い砕かれ、感謝感激で一杯だったでしょう。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ」それはなんとすばらしい慰めと励ましに満ちたことばでしょう。