聖 書 ヘブル人への手紙第10章19節~25節

19:兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
20:彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
21:さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
22:心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
23:また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
24:愛と善行とを励むように互に努め、
25:ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

金 言 
 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる。(ヘブル10:19~20)
 あけましておめでとうございます。本日は元旦でもあり聖日です。昨日までの一年で少なからず悔いの残ることがあったとしても、「一年の計は元旦にあり」とも申します。聖書には「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」(ピリピ3:13~14)とありますから、信仰の行程を足並みそろえて歩き出しましょう。
新しい生きた道
 人は救われたことを「新生した」といいます。クリスチャンはイエス様を受け入れた時に新しく生まれ変わります。私たちは罪のために神様と交わりを絶たれていました。イエス・キリストは私たちが神様に近づくための新しい生きた道を備えてくださいました。神に接近する手段は「イエスの血」によります。19節に「こういうわけで」とあるので前章までの教理的説明を受けて具体的な論証に入ります。ヘブル書は旧約聖書の注解書と呼ばれ聖書を正しく知る助けとなります。旧約時代、神殿の中にある至聖所は垂れ幕でさえぎられて中を見ることはできませんでした。大祭司のみが一年に一度この聖なる部屋に入ることが出来ました。贖いの日に国の罪のために犠牲のささげ物をするためでした。しかし、キリストは「ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために」世に来られました。イエス様が亡くなられたとき「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27:51)とあり、イエス様の十字架による死によって神様と人をさえぎる至聖所の垂れ幕は取り除かれました。これによって今や信じる者は誰でも「はばかることなく」神様のみ前に歩み出ることが出来るようになりました。神様への新しい道が人としてのイエス様によって開かれたのです。
神に近づくための4つの条件
 「心はすすがれて良心のとがめを去り、」イエス様を信じて救われた者は罪赦されて重荷は取り除かれました。ジョンバニアンの「天路歴程」では重い荷物を背負わされた主人公は長い旅路を喘ぎながら進みます。私たちは罪の重荷をイエス様のもとに下ろしました。軽くなったのは「良心のとがめ」が去った心です。神様に向かって新しい生きた道を歩くとき、再び思い煩いという信仰に不必要な荷物はいりません。
「からだは清い水で洗われ、」良心のとがめが去るというのがクリスチャンの内的な変化とするならば、からだは清い水で洗われというのは外的な変化、「洗礼」を表します。「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするため」(エペソ5:26)とあるように、信仰の告白を神と人の前に幼な子のように素直に言い表し、バプテスマを受けて聖なる新しい生きた道を共に歩くことです。
「まごころをもって」クリスチャンは神様に礼拝をささげている時だけでなく、一年365日いつも主のみ前にある生活です。陰日向のない生活はあなたを神に近づかせます。
「信仰の確信に満たされつつ」信仰を深めるため聖書とひざ(祈り)は欠かせません。
望みを保ち、互いに愛に励む
 いのちをかけてイエス様が新しく生きた道を開いてくださったのですから、救われた私たちは横道にそれて道草を食っていてはいけません。とはいえ世の情報は洪水のように溢れています。それに伴って社会の価値観も変わります。私たちの目標であり希望であるイエス様から目をそらしてはいけません。新改訳は23節を「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」と訳しています。さらに信仰はひとりで成長することはありません。キリスト者には仲間が必要で団結した行動が不可欠です。24~25節には「互に」という言葉が二度使われています。私たちは神の家族として教会の集会を通して新しい生きた道を一緒に歩みましょう。