聖 書 マタイ5章1~12節

1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

金 言 
「心の清い人はさいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8)
 あなたはいま幸せですか?中央アジアの小国ブータン政府は国民総幸福量の増加を政策の中心としているそうです。2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答したと報道されました。なんと国民の97.1%の人が幸せを感じているという結果に私たちは驚き、日本人に人の幸せとは何かを考えるきっかけを与えました。時に人は「もっと頭が良ければ幸せなのに」とか「もっと美人(イケメン)なら幸せだろうに」と考えるかもしれません。しかし主イエスは『心の清い人はさいわいである、彼らは神を見るであろう。』と言われました。幸せな人の条件を頭が良いこと、見た目の良さでないことでないことに、一度は安心するけれども私たちの心は再び悩み始めます。なぜなら「私は神様の目に心の清い人と映るだろうか…そうは見えないことは自分が一番わかっている」からです。
人の「心の清さ」を知られる神
 「清い」とはギリシャ語でカサロスということばです。もともとカサロスは、汚れのない清い水、傷の無い動物、水で薄めないぶどう酒や牛乳、不純物がなく品質において純度の高い金や銀という意味に使われました。旧約聖書では清いことは習慣的に儀式を守っている限り、その人は清い人と認められました。主イエスの時代にはユダヤ教は形式化してしまい、心の中で高慢や苦々しい思いと憎しみ、不潔な欲望を持っていても、外見的に儀式を正しく守っているならば、その人は清い人とされました。それに対して主イエスは宣教の始まりとなる山上の説教で『心の清い人はさいわいである。』ということばでそれらをはっきり否定しました。主イエスにとって清いことは外面ではなく内的なこと、清さは見た目ではなく心と思いを示すことばであり魂の態度にありました。主イエスは集まってきた人々を前に、心の思いが正しくないのであれば、その人は全く清くありませんと話されたのです。
罪人を清くされるイエス・キリスト
 神の目から見ればどんな人の心も清くはありません。しかも自分でその汚れをきよめることはできないのです。旧約聖書でエレミヤは、それは豹がその斑点を変えることが出来ないのと同じであると言いました(エレミヤ13:23)。しかしそのような私たちのために神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。キリストが私たちの罪を負って十字架で死なれたことにより、罪人の私たちは清い者と見なされます。さらにキリストを信じるとき聖霊が下り、信じた者の心の内側を全く清く変えてくださるのです。それだから私たちは自分の汚れた姿を正直に認め、告白するときに私たちは神様の目に清い者とされます。自分の力や努力では少しも清くすることができなかった汚れた心はキリストにあって清くされました。
見えないはずの「神を見る」
 『彼らは神を見るであろう』とありますが、人は文字通り肉体の目をもって神を見ることはできません。では主イエスの言われる「神を見る」とは何を指すのでしょう。第一に「神を見る」とは神を十分に知るようになることです。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている…」(第1コリント13:12)。パウロは手探りで神を見てその姿はおぼろげでした。やがて真理を知りはっきりと神を知るに至りました。私たちが神を知るために最も有効な手段は聖書を読むことです。そこには私たちが知らなかった神の恵みがなんと豊かに隠されていることか。第二に「神を見る」とは神との親密な交わりの中に入ることです。神との深い交わりを持つには、みことばを思い巡らして神に祈ることに勝る手段はありません。愛することの喜びとは、愛する方を目の前に見ることです(第1ペテロ1:8)。やがてその心が主イエスによって、御霊によって清められた人は神を見るのです。そして私たちは生活の中で働かれる神を知るのです(詩篇51:10)。